「オノーレ・ミラボー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ヴィクトール・リケティ・ド・ミラボー]]の次男として生まれ、3歳の時に誤った[[天然痘]]の治療により、顔に黒い斑点が残った。
[[エクス=アン=プロヴァンス]]の大学の法学部で学び、とくに将来民法典を編纂した[[:fr:Jean Étienne Marie Portalis|Jean Étienne Marie Portalis]]に影響を受けた。
1768年には、軍隊に入っていたが、借金を抱え、父を怒らせた。父は債権者から彼を免れさせるために、ミラボーを数回[[ヴァンセンヌの塔]]に閉じ込め、最終的には[[フランシュ=コンテ地域圏]]の[[ジュー城]]に1775年に閉じ込めた。革命前から学識と放蕩者としての評判ですでに庶民の間でも有名であり<ref>1772年から1782年にかけて、7年間幽閉されていた。しかし、1772年には『専制政治論』を書いている。投獄されている間に政治手覚書を多数書いている。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 467ページ)</ref>、[[1789年]]の[[三部会|全国三部会]]では、貴族の出身として第二身分議員の資格もあったが、演説の才能は抜きんでていたので、[[エクス=アン=プロヴァンス]]の第三身分議員としても選出され、本人は二つの当選から敢えて第三身分議席を選んで会議に臨んだ。1789年6月23日、三つの身分の代議員を招集した会議で代議員を国民の代表とみなす発言をした。革命の初め頃の彼の果たした役割は重要なものであった。選挙民に会議の報告書を送り、ヴェルサイユで今何が起こっているかをフランス全土に知らせた。三つの身分の会合は彼の提案によるものであり、彼は国民議会の中心的人物であった。<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 468ページ</ref>。