「ジョセフ・ウォーレン」の版間の差分

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ウォーレンは[[1775年]][[6月14日]]にマサチューセッツ植民地議会から少将に指名された。しかし、この指名は3日後のバンカーヒルの戦い([[6月17日]])の時にはまだ有効となっていなかった。ウォーレンは[[イズラエル・パットナム]]将軍と[[ウィリアム・プレスコット]]大佐に指揮官として従軍してくれるように依頼されたが、1兵卒としての従軍を申し出た。ウォーレンは前線に出て敵の攻撃を3度まで受け止め、味方を鼓舞し続けていたが、ウォーレンの姿を認めたイギリス士官によって頭を撃たれ即死した。
 
[[画像:The_death_of_general_warren_at_the_battle_of_bunker_hillThe Death of General Warren at the Battle of Bunker's Hill.jpg|thumb|right|250px|[[バンカーヒルの戦い]]でのウォーレンの戦死 by [[:en:John Trumbull|John Trumbull]]]]
レキシントン・コンコードの戦いの時のオールド・ノース・ブリッジで敗北を喫していたイギリス軍大尉のウォルター・ローリーは後に、「一つ穴に他の反逆者共々あのろくでなしを放り込んだ。そこには彼と彼の扇動的信条が残っているかもしれない」と語った。ウォーレンの遺体は数ヵ月後彼の兄弟とポール・リビアによって掘り出され、彼自身が埋め込んだ義歯によって識別された。これは歯科法医学によってなされた初めての検視識別の記録となった。ウォーレンの遺体はグラナラリー墓地に埋葬された後に、[[1825年]]にはボストンのセントポール教会大聖堂に、さらに[[1855年]]にはフォレスト・ヒルズ墓地にある一族の墓に移された。