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=== 文化の中心地 ===
この後は『[[シャルルマーニュの寄進状]]』によれば[[800年]]にカールにより[[ローマ教皇]]に寄進されたとされるが、この文書は今日では[[偽書]]とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、[[教皇領|ローマ教皇領]]の首都として栄え、ローマは[[ルネサンス]]文化の中心地となった。教皇[[ニコラウス5世]]の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマは[[フィレンツェ]]にかわってルネサンスの一大中心地となり、[[ミケランジェロ]]、[[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]などの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、[[ハプスブルク家]]の傭兵軍による、いわゆる「[[ローマ略奪|ローマ劫掠]]」によって、この都の[[盛期ルネサンス]]は終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇[[シクストゥス5世]]の時代で、[[ポポロ広場]]から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、[[フェリクス水道]]を修復した。[[サン・ピエトロ大聖堂]]の丸屋根が完成したのもこの時代である。
[[対抗改革]]期のローマを特徴づける[[バロック様式]]は、17世紀の建築物に多くみられる。[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]や[[ボロミーニ]]のような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。[[スペイン階段]]などにみられる18世紀前半の[[ロココ様式]]の建物は、やがて[[新古典主義]]の建物にかわった。1797年[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、[[ウィーン会議]]の後、ローマはふたたび教皇領となった。