「ピッグス湾事件」の版間の差分

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またこのピッグス湾事件を'''第一次キューバ危機'''として、翌[[1962年]]10月の核戦争の寸前までいった[[キューバ危機]]を第二次キューバ危機とする呼び方もある。
== 概要 ==
[[1959年]][[1月]][[キューバ革命]]後、2月に[[フィデル・カストロ]]が革命政権の首相に就任した。しかし、その後アメリカとキューバは対立して、1961年1月にアメリカは国交を断絶し、その間にカストロ政権の転覆計画が密かに進められていた。そして国交断絶直後に大統領に就任したケネディ大統領は、前任のアイゼンハワー大統領時代にCIAを中心に進められていたキューバ侵攻計画を承認して、[[1961年]][[4月15日]]にキューバ軍機に偽装した爆撃機がキューバ空軍飛行場を爆撃し、17日から亡命キューバ人の上陸部隊がピッグス湾(コチノス湾)にあるヒロン浜(プラヤ・ヒロン)に上陸侵攻を開始した。だが、[[ソビエト連邦]]の援助を受けた[[キューバの軍事|キューバ軍]]は19日まで上陸地点のヒロン浜に封じ込め、ピッグズ湾に閉じ込められた反カストロ軍『{{仮リンク|第2506突撃旅団|es|Brigada de Asalto 2506|en|Brigade 2506|label=二五〇六部隊}}』<ref group="注">この亡命キューバ人部隊の名称は様々であるが、アメリカでは『二五〇六部隊』と命名されていた。「チェ・ゲバラ」井高浩昭 著 149P参照  </ref>の上陸部隊は19日に投降、114名が戦死し1189名が捕虜となった。この作戦を主導したアメリカは世界から非難を受け、ケネディ政権はキューバ政策で大きく躓いた。
 
この事件の直後、キューバ政府は先の革命が[[社会主義革命]]であることを宣言し、[[ソビエト連邦|ソ連]]への接近を強め、その翌年秘密裡に軍事協定を結び、核ミサイルを持ち込んだ結果[[1962年]]10月に[[キューバ危機]]が起きることになる。