「宇都宮常設球場」の版間の差分

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== 沿革 ==
*[[1931年]](昭和6年)宇都宮市野球協会長の小野春吉が「隣の[[群馬県]]には立派な野球場がある。栃木県にもそれに負けないものを造ろう」ということで、小野の仲間らに呼びかけて、宇都宮野球連盟を結成し、建設を計画した。
 
*[[1932年]](昭和7年)敷地5,500坪を借り受け、多額の借金を含む15,000円をつぎ込んで球場が建設された。両翼100.5m、中堅115.8m、収容人員2万人は当時として屈指の広さを誇った。
*[[1934年]](昭和9年)12月、[[ベーブ・ルース]]や[[沢村栄治]]らが出場した「[[日米野球]]」の会場として使われた。
 
*[[1940年]](昭和15年) 宇都宮市は市営の球場とすべく連盟と折衝し敷地を地主から買収、球場施設を連盟から12,000円で買い取り、市営常設球場となった。
*[[1934年]](昭和9年)12月、[[ベーブ・ルース]]や[[沢村栄治]]らが出場した「[[日米野球]]」の会場として使われた。
*戦争中は野球どころではなくなり、高射砲陣地となり、防空壕も構築され荒廃した。
 
*戦後、連盟は市から無償で借り受け、35万円を投じて復旧に尽力した。
*[[19491940年]](昭和2415年) 宇都宮市は代償金市営の球場とすべく連盟と折衝し敷地を地主から買収、球場施設を連盟に支払から12,000円で買取り再度市営常設球場となった。
 
*[[1950年]](昭和25年) [[姿川村]](その後宇都宮市に合併)に[[栃木県総合運動公園|栃木総合運動公園県営球場]]が完成するが、その後も読売ジャイアンツ主管試合を常設球場で数試合開催。
*戦争中は野球どころではなくなり、高射砲陣地となり、防空壕も構築され荒廃したが、戦後、連盟は市から無償で借り受け、35万円を投じて復旧に尽力した。
*[[1960年]](昭和35年) 施設の老朽化や小学校不足などの理由で閉鎖された。跡地は[[宇都宮市立宮の原小学校]]となった。
 
*[[2002年]](平成16年) 小学校正門脇に顕彰碑が完成した。
[[1949年]](昭和24年) 市は代償金を連盟に支払い、再度市営常設球場とした。
 
*[[1950年]](昭和25年) [[姿川村]](その後宇都宮市に合併)に[[栃木県総合運動公園|栃木総合運動公園県営球場]]が完成するが、その後も読売ジャイアンツ主管試合を常設球場で数試合開催。
 
*[[1960年]](昭和35年) 施設の老朽化や小学校不足などの理由で閉鎖された。跡地は[[宇都宮市立宮の原小学校]]となった。
 
*[[2002年]](平成16年) 小学校正門脇に顕彰碑が完成した。
 
== 出典 ==