「西郷隆盛」の版間の差分

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12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、[[奄美大島]]に潜居させることにした。12月末日、菊池源吾<ref group="注釈">肥後国の[[菊池氏]]を祖としていたので、「吾が源は菊池なり」という意で付けたと云われる。</ref>と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。安政6年([[1859年]])1月4日、伊地知正治・大久保利通・[[伊地知貞馨|堀仲左衛門]](次郎)等に後事を託して[[山川港]]を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。
 
島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく[[重野安繹]]の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手に努めた。この間11月、龍家(もと[[田畑]]家)の一族、佐栄志の娘・とま(のち[[愛加那]]と改める)を島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目・藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活に馴染み、[[万延]]元年([[1860年]])11)2211日には[[西郷菊次郎|菊次郎]]が誕生した。[[文久]]元年([[1861年]])9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾と名乗った。11月、見聞役・木場伝内([[木場清生]])と知り合った(のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり西郷を助けた)。
 
=== 寺田屋騒動前後 ===