「九州平定」の版間の差分

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島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の[[九州国分]]案は到底受け入れがたいものであった<ref name=fujiki153/><ref group="注釈">藤木久志は、この戦役について秀吉側が「征伐」と呼称しているのは、いったんは停戦令を受諾して使者を派遣しておきながら、最後に島津側が秀吉の国分案を拒否したことが許せないということによるものであろうとしている。[[#藤木1|藤木(2001)pp.153-154]]</ref>。天正14年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、大友宗麟は[[大坂城]]に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している<ref name=owadahe>[[#小和田2|小和田「戸次川の戦いと鶴賀城」(2007)pp.125-128]]</ref>。
 
秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた[[毛利輝元]]・[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]や、[[宮部継潤]]などの中国の大名、あるいは[[長宗我部元親]]・[[十河存保]]などの四国の大名を用いようとした<ref name=owada07/>。秀吉が天正14年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]付で毛利輝元にあてた覚書には、[[城郭]]の補強、豊前・肥前から人質をとること、[[西海道]]にいたる道路の修造、および[[赤間関]]([[山口県]][[下関市]])への兵糧蔵の建造を命じている<ref name=okamoto269>[[#岡本|岡本(1969)p.269]]</ref>。
 
== 経緯 ==