「チェコスロバキア共産党」の版間の差分

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===ノヴォトニー体制の動揺===
[[1953年]]、3月のスターリン死去に続き、[[5月14日]]にゴットワルトが急逝して、チェコスロバキア共産党は緩やかに変化した。集団指導体制の一角を占めた[[アントニーン・ノヴォトニー]]共産党第一書記は徐々に支持を固め、スラーンスキー裁判で訴追の中心人物となった[[アントニーン・ザーポトツキー]]が死去した[[1957年]]には大統領職も兼務した。ノヴォトニーは[[スターリン批判]]後に東ヨーロッパ諸国で広がるソ連支配への反発を抑え、[[ハンガリー動乱]]におけるソ連の[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]軍事介入を支持すると共に、[[1960年]]には国名を'''チェコスロバキア社会主義共和国'''へ改称した。一方、ゴットワルト政権による粛清犠牲者への名誉回復も慎重に進め、[[1963年]]にはスラーンスキー裁判の不当性を認める決定を下した。しかし、その[[自由化]]への対応は遅すぎた上、[[中央集権]]主義で硬直化した政治・経済システムや、1960年代に入って拡大した[[西側諸国]]との経済格差は共産党やノヴォトニー個人に対する国民の不満を増加させた。
 
[[1967年]]になるとノヴォトニーに対する批判が公然化してきた。その中心の一人はスロバキア共産党第一書記の[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]であり、チェコに比べて冷遇されてきたスロバキアの地域・党の地位向上を訴えていた。また、彼は[[言論の自由]]化などをチェコに先行して実施していた。