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内山城は、[[永正]]年間に大井美作入道玄岑が築城したといわれている。戦国時代の城主は信濃国衆・岩村田大井氏。
 
[[甲斐国]]の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)は天文10年から[[信濃侵攻]]を開始し、『[[高白斎記]]』によれば[[天文 (元号)|天文]]12年(1543([[1543]])には信濃[[長窪城]]主・[[大井貞隆]]は武田方に捕縛された。貞隆の子息・[[大井貞清|貞清]]が内山城において抵抗し、天文15([[1546年]])には武田氏は佐久郡へ侵攻し、同年5月3日には内山城攻めを行う。『高白斎記』によれば、同年5月21日に貞清は降伏し、野沢([[佐久市]])へ退いた。『高白斎記』によれば、貞清は翌天文16年に武田氏に臣従した。
 
内山城代には一時大井貞清に任されるが、同年7月18日に武田家臣の[[小山田虎満|上原伊賀守]](小山田備中守、虎満)が城代となり(『高白斎記』)、虎満は死去まで佐久郡の[[郡代]]を務めている。天文17年([[1548年]])2月14日には、[[小県郡]]上田原における[[上田原の戦い]]において武田方を撃退した[[村上義清]]は内山城を攻めたが、晴信は諏訪[[上原城]]から佐久へ出馬しこれを退けた。