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'''秋田城介(あきたじょうのすけ)'''とは[[律令制]]において[[出羽国]]の秋田地方に置かれた[[秋田城]]を専管した[[国司]]である。秋田城に置かれた出羽介であることから秋田城介といわれるようになった。
 
780年に秋田城強化の方針が打ち出され、国司が秋田城に常在し統治に当たることとなった。10世紀後半には[[平繁盛]]が秋田城介に任官して以降、繁盛の子孫(繁盛流)、特に繁盛の孫である繁茂の一流が秋田城介を世襲し、繁茂の子、[[平貞成|平貞成]]からは秋田城介にちなんで城(じょう)の名字を名乗り始めた。この頃には、秋田城介の官職は名目だけのものとなっていた。しかし、秋田城介になることは武門の誉れとされるようになった。
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1575年(天正3)、[[織田信長]]の嫡男、[[織田信忠]]が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17)、[[安東氏]]の後裔、[[秋田実季|安東実季]]は秋田城介を称するとともに[[秋田氏]]を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて[[明治維新]]に至った。
 
[[Category:制の|あきたしようのすけ]]