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建安13年([[208年]])、朝廷より劉隠が使者として訪れ、孫賁は正式に征慮将軍に任じられた。また、豫章太守の職務も引き続き執り行なうよう命じられた。
 
曹操が荊州を占拠すると、娘で曹操との間に姻族関係があるため、自らの息子を人質を出して帰順よう出すこしたためと考えて、[[朱治]]にそれを制止されている(『三国志』呉志「朱治伝」)。
 
時期は不明だが、孫賁は官職にあること11年で死去したという。