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2018年1月28日 (日) 18:27時点における版
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148.88.244.141
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2018年5月30日 (水) 19:13時点における版
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148.88.244.109
(
会話
)
→生涯
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42行目:
建安13年([[208年]])、朝廷より劉隠が使者として訪れ、孫賁は正式に征慮将軍に任じられた。また、豫章太守の職務も引き続き執り行なうよう命じられた。
曹操が荊州を占拠すると、
娘で
曹操との間に姻族関係が
ある
ため、自らの息子を
人質
を出
と
して
帰順
差
し
よう
出すこ
と
したため
と考えて
、[[朱治]]にそれを制止されている(『三国志』呉志「朱治伝」)。
時期は不明だが、孫賁は官職にあること11年で死去したという。