「お好み焼き」の版間の差分

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Okritre (会話 | 投稿記録)
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[[呉市]]の関西風お好み焼き店「ぼてじゅ」の創業者である宅見義喜によれば、お好み焼きのルーツは[[ピザ]]であり、昭和初期に軍艦の乗組員がヨーロッパから呉に伝えたという{{Refnest|group=注|ただし『広島お好み焼物語』58-59ページによれば、この説は「余り支持されていない」とある}}。これを海軍工廠に徴用された大阪の料理職人が大阪に伝え、戦後の復興期に里帰りして関西風お好み焼きの元になったと主張している<ref>[https://web.archive.org/web/20070813093259/http://www.chugoku-np.co.jp/okonomi/mystery/O403040901.html 中国新聞]</ref>。
 
<!--現在の主流であり、後述する「関西風お好み焼き」の特徴とされる「生地にみじん切りのキャベツを混ぜ込んで焼く」というスタイルがいつどこで発明されたかという明確な記録は存在しない。-->「柔らかいもんじゃ焼きを屋台で販売するために粉の分量を増やしたのがどんどん焼きの始まりである」とする説がある<ref>[http://news.mynavi.jp/articles/2014/06/07/okonomiyaki/ 大阪府vs.広島県どちらが本家? お好み焼き文化のルーツを名店とともに探る!] - マイナビニュース</ref>が、実際そもそも現在もんじゃ焼きが誕生したのは昭和30年代のことであり、戦前の文字焼きは蜜の入った具なしの甘い生地を焼いて食べる子供のおやつであった。またどんどん焼きは一銭洋食と同じ「のせ焼き」であり、後のもんじゃ焼きや後のお好み焼きのように生地に具材を混ぜ込む調理法は挽肉を用いる一例を除き記録には残っていない。[[池波正太郎]]は昭和初期を回想したエッセイの中で、今のお好み焼のごとく何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼きあげるというような雑駁なものではなかったと語り、数あるどんどん焼きの中で唯一「牛てん」というメニューだけがネギとひき肉を生地に混ぜてから焼いていたと証言している{{R|食卓の情景}}。
 
三宅正弘は、戦前のお好み焼き屋において、一人前ずつの分量を座敷に運んで客に焼かせるという提供方法から必然的に合理的で管理がしやすい混ぜ焼きとなり、これが「お好み焼き」という言葉とともに大阪に伝わったのではないかと考察している{{R|神戸とお好み焼き}}。<!--お好み焼きは庶民の料理であるどんどん焼きをお座敷に持ち込むという遊びから始まったと考えられるため、{{要出典範囲|客である大人が子供の頃に親しんだもんじゃ焼きと同じ形式を採用したという推論は一定の説得力を有すると思われる|date=2016年11月}}。-->