「オオムギ」の版間の差分

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現在栽培されている品種は、現在[[イラク]]周辺に生えている二条オオムギに似た野生種[[ホルデウム・スポンタネウム]]({{snamei||Hordeum spontaneum}}) が改良されたものともいわれる<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典2 主要食物:栽培作物と飼養動物』 三輪睿太郎監訳 朝倉書店 2004年9月10日 第2版第1刷 p.17</ref>。[[新石器時代]]である1万年前にはすでに、[[シリア]]から[[ユーフラテス川]]にかけての[[肥沃な三日月地帯]]で栽培が開始されていた。当初の調理法は、炒って麦粉にしたものを水に溶かしたり、または粗挽きにした[[粥]]だったと考えられており、やがてそこからオオムギパンの製法が開発された。
 
[[古代エジプト]]でも主食の[[パン]]を焼くのに使われており、[[ヒエログリフ]]にも描かれている。このころにはすでにビールの製造も開始されており、パンとビールはエジプトの食生活の中心であった。このビール製造はオオムギパン製造の過程で、オオムギを粉にしやすくするため発芽させたときに偶然製法が発見され製造され始めたと考えられており、実際にこのころのビールは現在よりもかなりどろっとしたものだった。オオムギの粥もそのまま残っており、古代ギリシアや古代ローマでも重要な食料だった。一方古代ローマの時代には市民の主食はコムギとなっておりオオムギは主に家畜の飼料用だった。なおオオムギを食べると脂肪を増やして出血を防ぐと考えられていたため、[[剣闘士]]の主食となっていた。このため剣闘士は侮蔑的に「大麦食い」(ホルデアリウス)と呼ばれていた。[[ワイン]]が主流であったローマではビールは飲まれておらず、むしろビールは帝国の北方にいた[[ゲルマン人]]たちが盛んに醸造して飲んでいた。その後も長くヨーロッパでは重要な穀物であったが、グルテンがないためにコムギに比べて使用法が限定されるため、次第に主食の座から転落し、醸造や飼料用が中心となっていった<ref>「コムギの食文化を知る事典」p25 岡田哲 東京堂出版 平成13年7月15日初版発行</ref>。ヨーロッパにおいては、コムギの普及とともに二義的な地位へと落ち、中世末期にはよりパンに適したライムギよりも重要性が低くなった<ref>「中世ヨーロッパ 食の生活史」p58 ブリュノ・ロリウー著 吉田春美訳 原書房 2003年10月4日第1刷</ref>。一方で、[[ゲルマン民族の大移動]]によってヨーロッパ北部を押さえたゲルマン人たちは引き続きビールを愛飲しており、ゲルマン系のフランク王国がヨーロッパのかなりの部分を押さえたことでビール製造はヨーロッパ各地に根を下ろした。このビール醸造用が次第にヨーロッパのオオムギ栽培で大きな部分を占めるようになった。
 
ヨーロッパ以外でも、オオムギは各地に広く伝わり、伝来初期は主食としていた地域も多かったが、ヨーロッパと同様の理由で徐々に主食の座から転落していった。中国でもオオムギは「牟」と呼ばれ、広く栽培されたがコムギやコメを越えるものではなかった。例外は[[チベット高原]]であり、ここではほかの穀物が気候的に栽培不可能であるためにオオムギは主穀となった。また、[[エチオピア高原]]においてもオオムギは重要食料となったが、こちらでは[[テフ (穀物)|テフ]]の普及とともにやはり地位が下がっていった。この2地域はオオムギの品種が非常に多く、またここで生まれた品種が周辺に拡散していったものも多く、オオムギ栽培化の二次中心とされる。しかし、オオムギはすべての主要穀物の中で最も成長が早く、収穫までにかかる日数も短いうえ、乾燥や寒冷に強く、また湿潤にもある程度適応できるなど適応性が高い。このため、温帯中心にユーラシア大陸のかなり広い地域で二義的に栽培された。