「お好み焼き」の版間の差分

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=== お好み焼きの誕生と伝播 ===
大正7年(1918年)3月24日の読売新聞朝刊に「蝦フライ一銭のどんどん焼」と題する記事が掲載されており、記事内では「どんどん焼き」という表現を用いながらも、その屋台の暖簾や品書きには「お好み焼」という表現が使用されている。また[[柳田国男]]は、昭和6年(1931年)に刊行された「明治大正史 第四巻 世相篇」において「子供を相手の擔ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る。」と書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=朝日新聞社 編 |year=1931 |title=明治大正史 第四巻 世相篇 |page= |publisher=[[朝日新聞社]] |location= |asin= |quote= }}</ref>。ここで言う一品料理とは屋台で提供される当時流行していたカツレツやビフテキなど庶民的な洋風料理のことを指しており、当時のお好み焼きとはそれを模した子供向けの簡易で安価な軽食、いわゆる「どんどん焼き」の異称のひであったと考えられる。
[[近代食文化研究会]]ではこれらの記事を始めとする当時の文献を根拠として「どんどん焼きとはお好み焼きの児語・異称であり、両者は特定の料理ではなく、同一の業態を指す呼称であった」と結論づけている<ref>{{Cite book |和書 |author=近代食文化研究会 編 |year=2018 |title=お好み焼きの戦前史 |page= |publisher=[[Amazon.co.jp|Amazon Services International, Inc.]] |location= |asin= |quote= }}</ref>。
 
[[池田弥三郎]]の「私の食物誌」には「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに[[銀座]]裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソード<ref>「屋台の、子ども相手の、二銭三銭五銭といったどんどん焼きが、出世して、いつしか「お好み焼き」になった。そして銀座の路地の奥などに、ちょっとした店ができた。それは昭和の初年ごろではなかったか。なんでも、銀座裏のお好み焼き屋が、密会所みたいになって、風俗上の取り締まりであげられたということがあったのが、昭和六、七年ごろのことで、当時大学の予科生だったわたしは、そろそろそういうところへ出入りし始める時分だったが、そんなことから、それっきり、行きそびれてしまった。」 - {{Cite book |和書 |author=池田弥三郎 |year=1965 |title=私の食物誌 |page= |publisher=[[河出書房新社]] |location= |asin=B000JADHQA |quote= }}</ref>が記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の[[花街]]において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生した<ref>「お好み焼きの事始めは明らかではないが、昭和6〜7年ごろに、どんどん焼きの調理形態から東京の花柳界で創始されたという説がある。平焼きは、子供から大人へ、屋台からお座敷へと変わり、大人が楽しむ風流遊戯料理になる。そして、客が作って楽しむ、お座敷お好み焼きができる。」 - {{Cite book |和書 |author=岡田哲 |year=1993 |title=コムギ粉の食文化史 |page= |publisher=[[朝倉書店]] |location= |isbn=4-254-43053-1 |quote= }}</ref>というこの証言に基づいた解釈を紹介しており、[[日本コナモン協会]]会長の[[熊谷真菜]]も自著にて同じ説を採用している<ref>{{Cite book |和書 |author=熊谷真菜 |year=1993 |title=たこやき |page= |publisher=[[リブロポート]] |location= |isbn=4-8457-0828-0 |quote= }}</ref>。
 
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=== 乗せ焼きの発祥について ===
前述のように乗せ焼きは混ぜ焼きよりも歴史が古く、東京の[[どんどん「お好み焼き]]や神戸の[[にくてん]]は大正時代以前から普及していた。伝搬時期に地域差はあるものの、昭和の初めには[[東日本]]ではどんどん焼き、[[西日本]]では[[一銭洋食|洋食焼き]]としていう名称でほぼ全国的に広まった。
 
一銭洋食の流れを組む<ref>[https://web.archive.org/web/20070819170042/http://www.chugoku-np.co.jp/okonomi/mystery/O401120801.html 広島風お好み焼きのルーツについて] - 中国新聞</ref>広島風お好み焼きは戦後の発祥で<ref name="mura">[http://www.okonomimura.jp/about/index.html お好み村とは] - お好み村</ref>、後の[[お好み村]]に繋がる[[中央通り (広島市)|中央通り]]の屋台街から始まっており、屋台街誕生当時から営業している店に[[みっちゃん]]などがある<ref>[https://web.archive.org/web/20070825082032/http://www.chugoku-np.co.jp/okonomi/mystery/O403010601.html 「お好み焼き」名前のルーツ] - 中国新聞</ref>。<!--この節のタイトルである「オリジナル」は「関東風」の言い換えとして用いています。のせ焼きのオリジンについての記述は別項目にてお願いします。-->
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{{独自研究|section=1|date=2016年11月}}
*[[大正時代]]以前 - 正確な発生時期や相互関係については、記録や証言がないため不詳である。
**[[東京]]で「お好み焼き」が誕生。[[どんどん焼き]]」が誕生という俗称で親しまれる
**[[神戸]]で「[[にくてん|肉天]]」が誕生。
**[[近畿地方]]のどこかで「[[一銭洋食]]」が誕生。
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**[[1931年]](昭和6年)ごろには、東京だけでも数十の「御好み焼」を提供する屋台が存在していた。
*[[1931年]]-[[1932年]](昭和6-7年)ごろ - [[新橋 (花街)|銀座裏]]のお好み焼き屋が風俗上の理由で摘発される。
**「お好み焼き」および屋台ではなく店舗としての「お好み焼き屋」の存在を裏付ける最古の証言。
*[[1937年]](昭和12年)ごろ - [[大阪]]初のお好み焼き屋とされる「以登屋」が[[北新地]]近くに開店。
**東京で流行した「お好み焼き」が、大阪にも伝わる。
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*[[1942年|1942]]-[[1945年]](昭和17-20年) - 食料統制のため外食産業が衰退。
*[[1945年]](昭和20年)- 戦後の[[闇市]]で粉物料理が復活。
**戦争による中断を挟んだことにより、洋食焼きやどんどん焼きという名称が廃れ、[[キャベツ]]を使用する混ぜ焼きの「お好み焼きが主流となる。
*[[1948年]](昭和23年)- 神戸の道満調味料研究所(現:[[オリバーソース]])がとんかつソースを開発し販売開始。
**世界初の濃厚ブラウンウスターソース。この発明により、お好み焼やたこ焼に濃厚ソースを使用する食文化が関西に生まれ、神戸や大阪を中心に多くの地ソースメーカーが誕生した。