「舎密局」の版間の差分

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=== 京都舎密局 ===
明治3年(1870年)10月、大阪舎密局でハラタマに学び[[京都府]]に出仕した[[明石博高]]<ref>{{Cite book|author=|title=静瀾翁明石博高略伝|date=大正5年6月18日|year=|accessdate=|publisher=明石厚明|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>により設立され同年12月開所した。[[石鹸]]・[[氷砂糖]]・[[ガラス]]・[[漂泊粉]]を始めとするさまざまな工業製品の製造指導や薬物検定を行った。舎密局自体は京都府の管轄であったが、明治8年(1875年)2月には[[文部省]]管轄の「京都司薬場」が併設され、オランダ人教師ヘールツ(ゲールツ)による理化学の講義が翌年8月の廃止まで行われた。舎密局は後任の[[御雇い外国人|外国人教師]]として[[ゴットフリード・ワグネル|ワグネル]]を招聘して化学校教師とするとともに[[七宝焼]]などの製造改良を指導させた(彼に師事したうちの一人が[[島津源蔵 (初代)|島津源蔵]]である)。
 
明治14年([[1881年]])に京都府が舎密局を廃止したさい、主宰者たる明石は設備の払い下げを受けしばらく経営を続けたが、明治17年([[1884年]])には[[高木文平]]に譲渡され「京都倶楽部」と改称された。