「戴震」の版間の差分

戴震の方法をもっともよく伝えたのは、[[段玉裁]]・[[王念孫]]・[[王引之]](念孫の子)であり、世に戴・段・二王と称された。これらの人々は宋学に関しては議論せず、政治をあつかわず、考証のための考証を行ったとみなされている。当時の学者で高官となったものでは紀昀・[[王昶 (清)|王昶]]・[[畢沅]]・[[阮元]]らが、戴震の影響を受けた。
 
戴震の精髄は『孟子字義疏証』にある<ref>訳書は『戴震集 中国文明選8』([[近藤光男 (中国文学者)|近藤光男]]・安田二郎訳・注解、[[朝日新聞社]]、1971年、再版1977年)に収録。</ref>にある。その中の「聖人の道は、天下の情のすべてを実現させ、その欲を遂げさせようとするものであって、このようにして天下ははじめて治まる」という言葉は、戴震の哲学を端的に表す。理というのは情から生まれるものなので、それを役人の法のようなもの、抑圧の道具として理解したのは後世の儒学者たちの誤解である。程朱の哲学が「理」を物体のように存在し天から受けて心に具わるものとしたことは、人々が自分の臆断を「理」として固執するという禍を引き起こした。
 
戴震は無欲([[解脱]])を至上とする仏教の教理を、儒学に持ちこむことや普通の人間の「欲」を否定して聖人のみが達することができる「理」を押しつけることによる弊害を除こうとした。[[梁啓超]]はこのような戴震の立脚点を、ヨーロッパの[[ルネサンス]]に比較できる倫理上の一大革命と評価している。『孟子字義疏証』は[[宋明理学|宋儒]]が儒学と仏教を混合させたことを厳密に論証し、戴震自身が自分の主著と認めたにもかかわらず、当時自らの学問として読んだのは弟子[[洪榜]]のみで、『疏証』に反論したのは[[方東樹]]だけであったという。著作『戴震遺書』に収録。