「祇園祭 (1968年の映画)」の版間の差分

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{{統合文字|祇}}
{{Infobox Film
| 作品名 = 祇園祭
| 原題 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[山内鉄也]]
| 脚本 = 鈴木尚、[[清水邦夫]]
| 企画 = [[伊藤大輔]]
| 原作 = [[西口克己]]
| 製作 = 小川矜一郎<br/>久保圭之介<br/>浮田洋一<br/>遠藤嘉一<br/>茨常則<br/>中岡清<br/>加藤彰朗<br/>鈴木一成
| 製作総指揮 =
| ナレーター =
| 出演者 = [[萬屋錦之介|中村錦之助]]<br/>[[岩下志麻]]<br/>[[三船敏郎]]<br/>[[永井智雄]]<br/>[[志村喬]]<br/>[[三船敏郎伊藤雄之助]]<br/>[[北大路欣也]]<br/>[[高倉健]]<br/>[[渥美清]]<br/>[[美空ひばり]]<br/>ほか
| 音楽 = [[佐藤勝]]
| 主題歌 =
| 撮影 = 川崎新太郎
| 編集 = 河合勝己
| 製作会社 = 日本映画復興協会
| 配給 =[[ 新日本興業・松竹]]映配
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1968年]][[11月23日]]
| 上映時間 = 168分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = 日本語
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
'''祇園祭'''(ぎおんまつり)は、[[1968年]][[11月23日]]に公開された[[日本]]の[[映画]]。日本映画復興協会作、[[新日本興業・松竹]]映配配給。原作は[[西口克己]]の小説である。[[著作権]]は[[京都府]]が保有し、原則的に1回50,000円の上映料金で貸与している<ref>[http://filmpres.org/link/kyoto/ 京都府京都文化博物館 学芸課 映像・情報室]特定非営利活動法人映画保存協会、2015-06-01(</ref>。[[祇園祭]]の時期には[[京都府京都文化博物館]]で数回上映される。
 
== 概要 ==
当初は[[1961年]]、映画監督の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]が[[萬屋錦之介|中村錦之助]]主演で[[東映]]に企画を提出し、原作権も買い、翌年夏より製作する予定で脚本作成を進めていたが、未定稿の段階で製作費が莫大になることが問題になり、製作中止となった。その後、映画界の斜陽、時代劇の衰退によって、東映は撮影所の合理化とスタッフや俳優などの人員整理を断行、また時代劇から[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠路線]]への転換を行うが、それに反発した錦之助は、[[1966年]]春に東映を退社。伊藤大輔もフリーになって、錦之助の舞台公演の脚本・演出を手がけていた。
当初は[[1961年]]、映画監督の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]が[[萬屋錦之介|中村錦之助]]主演を前提に[[東映]]に企画を提出したが、製作費が莫大になることがネックとなり、お蔵入りとなった。その後、映画界の斜陽や東映の[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠路線]]への転換などの影響から、[[1966年]]に錦之助は東映との専属契約を解消、最終的には京都府政百年記念事業として[[京都府]]の協力と[[京都市]]市民のカンパを得て、「日本映画復興協会(代表は中村錦之助)」の名の下、[[1967年]]、製作が開始された。しかしこの間、構想・企画段階からのスタッフの降板<ref>製作当初から原作者、プロデューサー、脚本家、監督ら相互のコミュニケーションが滞り、企画当初から尽力した[[竹中労]]、[[八尋不二]]、[[加藤泰]]らが降板している。</ref>、監督の交代、錦之助自身の離婚や東映との労働争議、政治的妨害、関連団体からの圧迫、さらには経済的な曲折と、艱難辛苦の末、完成まで実に7年を経た労作である<ref name ="Momo_kun">{{Cite web |url=http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|title=エッセイ - 祇園祭|publisher=Momoくん ひみつきち|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070218065246/http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|archivedate=2007-02-18|accessdate=2013-06-03}}</ref>。そうした一方で映画会社主導ではなく、最終的な製作を日本映画復興協会が行ったため、映画会社の枠にとらわれず、東映、[[東宝]]、松竹のトップ俳優に加え、フリーの大物俳優が集結した豪華な配役となった。また、群衆シーンのエキストラとして、京都市民も数多く参加している。
 
「祇園祭」の映画化が再浮上し、製作が具体化したのは、府政百年記念事業として[[京都府]]の支援と[[京都市]]の協力が得られる見通しが立った[[1967年]]7月で、「日本映画復興協会(代表中村錦之助)」の名の下で同年8月に製作発表された。監督伊藤大輔、主演中村錦之助、製作費1億5千万円、同年11月クランク・イン、翌年4月公開予定ということだった。しかし、脚本の問題、スタッフの降板<ref>製作当初から原作者、プロデューサー、脚本家、監督ら相互のコミュニケーションが滞り、企画当初から尽力した[[竹中労]]、[[八尋不二]]、[[加藤泰]]らが降板している。</ref>、製作費の調達などで難航しキようやくクランク・インしたのは1968年8月だった。その後も、脚本完成の遅れ、伊藤大輔から山内鉄也への監督の交代、出演者の日程調整、製作費の増大(約3億円)、さらには政治的介入、ロケ現場での暴力団による妨害もあり、まさに艱難辛苦の末に完成した映画であった。最初の企画から完成まで実に7年を経た労作でもある<ref name="Momo_kun">{{Cite web |url=http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|title=エッセイ - 祇園祭|publisher=Momoくん ひみつきち|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070218065246/http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|archivedate=2007-02-18|accessdate=2013-06-03}}</ref>。
松竹の配給で、封切りは[[1968年]][[11月23日]]。通常の邦画系映画館ではなく洋画系映画館にてロードショー公開され、大ヒットを記録した。この成功は、日本の観客が時代劇に関して興味を持ち続けていることを証明し、また、映画会社大手5社の独占を止めたという点で、日本映画産業の将来に大きな影響を与えた<ref name=hasan/>。
 
そうした一方で大手映画会社主導ではなく、新たに設立された独立プロの日本映画復興協会による製作であったため、映画会社の枠にとらわれず、東映、東宝、松竹出身のスター俳優が進んで参加し、フリーの新劇俳優も加わり、豪華で異色な配役となった。また、群衆シーンのエキストラとして、京都市民も数多く参加している。
 
新日本興業・松竹映配の配給で、封切りは[[1968年]][[11月23日]]。通常の邦画系映画館ではなく洋画系映画館にてロードショー公開され、大ヒットを記録した。この成功は、日本の観客が時代劇に関して興味を持ち続けていることを証明し、また、映画会社大手5社の独占を止めたという点で、日本映画産業の将来に大きな影響を与えた<ref name="hasan" />。
 
作品の上映権は京都市が所持しており、その他権利関係が複雑に絡んでいるためソフト化の機会は得られておらず、[[祇園祭]]のシーズンに[[京都文化博物館]]・映像ギャラリーで行われる上映会が唯一の一般公開である<ref name ="Momo_kun"/>。
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* 製作:小川矜一郎、久保圭之介、浮田洋一、遠藤嘉一、茨常則、中岡清、加藤彰朗、鈴木一成
* 監督:[[山内鉄也]]
* 脚本:鈴木尚、[[清水邦夫]]
* 企画:[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]
* 音楽:[[佐藤勝]]