「祇園祭 (1968年の映画)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎出演者: パンフレットを参照して、役名と出演者を補筆した。
m 細部の訂正ほか。
50行目:
* 製作:小川矜一郎(=中村錦之助の本名)、久保圭之介、浮田洋一、遠藤嘉一、茨常則、中岡清、加藤彰朗、鈴木一成
* 監督:[[山内鉄也]]
* 脚本:<nowiki>[[鈴木尚之]]</nowiki>、[[清水邦夫]]
* 企画:[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]
* 音楽:[[佐藤勝]]
87行目:
* 伊平(つるめその頭):[[渥美清]]
* 於菟(つるめその若者):[[北大路欣也]]
* 祇園社神官:関根永二郎
* 甚兵衛(山科の百姓):[[下條正巳]]
* 一揆の頭:堀正夫
103行目:
* 町衆:[[美空ひばり]]、中村米吉、中村光輝
* 亥三(一揆の百姓):[[中村賀津雄]]
* 秀太(一揆の百姓):<nowiki>[[大辻伺郎]]</nowiki>
* せつ(山科の百姓):<nowiki>[[木暮実千代]]</nowiki>
 
ほか
111行目:
[[1950年]]、[[マルクス主義]]に基づく「新しい歴史学」を市民に啓蒙する活動の一環として、[[立命館大学]]教授だった[[林屋辰三郎]]を中心に[[紙芝居]]『祇園祭』が作成された<ref name=mahoko>[http://www.shc.usp.ac.jp/kyouraku/profile/thesis/movie.html 映画と歴史学 ‐『山椒大夫』から『もののけ姫』へ‐]京樂真帆子、『史風』第4号,1999年</ref>。ストーリーは、応仁の乱後、京都の町衆たちが室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての「祇園祭」を復興するというものであり、林屋の「町衆論」をドラマ化したものであった<ref name=mahoko/>。[[民主主義科学者協会]]京都支部歴史部会に参加していた学生らによって、[[1952年]]に大型の紙芝居が完成し、[[国民的歴史学運動]]として紙芝居興行が各地で打たれた<ref>[http://www.kyoto-minpo.net/archives/2008/07/14/50_9.php 50年ぶり紙芝居「祇園祭」]京都民報、2008年7月14日</ref>。当時京大の学生であった[[大島渚]]、[[加藤泰]]も参加していた。民衆の抵抗ぶりを紙芝居に仕立て、それを農民や労働者に見せて啓蒙するのが当時の大学生による歴史学研究会の小さな流行だった<ref>[http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/3253/1/20009-37-004.pdf 国民的歴史学運動における 「国民」 化の位相 ]小国喜弘、首都大学人文学報、2002.3</ref>。
 
この紙芝居興行に注目し当時から関心を持っていた映画監督の伊藤大輔はこの作品の映画化を計画し、[[1961年]]に、林屋の友人人友でもあり<ref name=imanishi>[http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/4813/1/RLA_123_001-022.pdf 歴史学と表象]今西一、小樽商科大学人文研究 (2012), 123</ref>[[日本共産党]]の京都市議会議員で作家でもあった西口克己が映画用原作として小説『祇園祭』を執筆したが、資金調達が困難出版するなりこれを読んですぐに映画化を企画し、東映で製作の準備を進めたものの、交た止になった結局、をたのを』の止時断念された<ref name=mahoko/>。[[1966年]]に錦之助が資本金300万円で日本映画復興協会を設立してスポンサー集めを始め、[[1967年]]に[[竹中労]]が京都府に持ちこみ<ref name=hasan/>、革新系の[[蜷川虎三]]知事のもと京都府が府政百年記念事業の一つとして全面的にバックアップすることでクランクインした<ref name=mahoko/>。竹中は[[五社協定]]の打破を目指して[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]を映画資本から引き抜こうとし<ref name=juudan>{{Cite book|和書|author=[[竹中労]]|title=日本映画縦断Ⅰ 傾向映画の時代|year=1974|publisher=白川書院|isbn=|pages=126-127}}</ref>、真先に岡田に本作の[[映画プロデューサー|ジェネラル・プロデューサー]]に就任して欲しいと交渉したが断られた<ref name=juudan/>。また製作者間での不調和音が激しく、竹中労、[[八尋不二]]、加藤泰、伊藤大輔が降板し、監督も山内鉄也に代わって完成した<ref name=imanishi/>。なお、日本中世史の研究家である[[河内将芳]]は、祇園祭に立ちふさがったのは幕府でなく[[延暦寺]]の[[大衆]]であり<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~bukatucenter/0809aki.pdf 戦国時代の祇園祭]カトリック大阪教会管区部落問題活動センター事務局、2008年9月</ref>、侍と町衆の対立としてのみ描いたストーリーに対しては疑問を呈している<ref name=hasan>[http://mass-ronbun.up.seesaa.net/image/2014fall_G3_Topacoglu.pdf 明治百年祭(1968年)と「京都」イメージの確立]トパチョール・ハサン、日本マス・コミュニケーション学会・2014年度秋季研究発表会・研究発表論文、2014年11月8日</ref>
 
== 脚注 ==