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[[File:Daihatsu Midget II EV 001.jpg|200px|thumb|right|ミジェットのEVレーシングカー]]
1965年に[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・スパイダー]]で地方のレースに参加したのがダイハツのモータースポーツデビューとなる。このときP-1、P-2と異なる仕様のコンパーノが同時期に登場していた。
1966年、ダイハツは[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・ベルリーナ]]をベースとし、DOHC16バルブ化した[[プロトタイプレーシングカー]]の[[P-3]]を2台揃えて[[1966年日本グランプリ (4輪)|第三回日本グランプリ]]にデビューライバルの[[ロータス・エリート]]と[[アバルト]]・[[シムカ (自動車メーカー)|シムカ]]を破ってGP-Iクラスで優勝を収めた。[[1967年日本グランプリ (4輪)|第四回日本グランプリ]]でも同クラスにミッドシップエンジンのP-5を2台開発して参戦するものの、メカニカルトラブルで予選を走れず、予選落ちとなってしまった<ref>[http://www.car-l.co.jp/news_view.php?news_num=12335 第270回・ダイハツのPシリーズ] 車屋四六のGood Days&Good Cars</ref>。[[1968年日本グランプリ (4輪)|第五回]]ではP-54台体制を敷き、クラス優勝を再び取り戻した。1969年の第六回に向けてもフェロー7を公開していたものの、結局参戦せずチームは解散、これによりダイハツはサーキットの大舞台から姿を消した。
 
[[世界ラリー選手権|WRC]]には1979年から[[ダイハツ・シャレード|シャレード]]で[[ラリー・モンテカルロ]]にスポット参戦し、1981年にクラス優勝を挙げた。1984年からは[[サファリラリー]]に参戦。シャレードは多数のクラス優勝をする活躍を見せ、1993年には排気量で1L上回るグループAマシンを押しのけて総合5位〜7位を占めた。またシャレードを[[グループB]]し最高クラスに参戦する計画もありコンセプトモデルの926Rも発表していたものの、突然のグループB消滅により立ち消えとなっている。
 
国内では[[ラリー]]・[[ダートトライアル]]で活躍。全日本ラリーでは1984年にシャレードで初めてクラスタイトルを獲得した。1990年代には[[ダイハツ・ミラ|ミラ]]の4WDターボ仕様であるTRXX X4Rを投入し、[[スズキ・アルト|アルトワークス]]や[[スバル・ヴィヴィオ|ヴィヴィオ]]と激しく争い、全日本ラリーで3度クラスタイトルを獲得。1998年に[[ダイハツ・ストーリア|ストーリアX4]]が登場すると黄金時代を迎え、[[全日本ラリー選手権]]・[[ダートトライアル|全日本ダートトライアル選手権]]の両方で2000年〜2005年までクラスタイトルを連覇した。素性の良さから、ストーリアX4は後継車の[[ダイハツ・ブーン|ブーンX4]]が登場した後も2014年まで参戦し続け、2013年に最後のクラスタイトルを獲得している。後継のブーンX4も2006年にJN2クラスでタイトルを獲得し、2008年のWRC([[ラリージャパン]])にスポット参戦、N1クラス優勝もしている。このように国内外の[[モータースポーツ]]に積極的に参戦してきたが、[[2009年]][[1月13日]]、「昨今の自動車業界を取り巻く経済状況の厳しい状況」および「(年を追うごとに)深刻化する若年層の車離れなどを理由に、[[モータースポーツ]]活動からの撤退とDRSの解散、関連会社DCCSが主催する[[ジムカーナ]]競技会[[ダイハツチャレンジカップ]]の終了を発表した。
 
ダイハツのカスタマイズブランドとして'''D-SPORT'''が存在する(SPK。SPKという会社の1部門でダイハツ工業と直接の資本関係はないが、東京オートサロンにダイハツ工業が出展する際は毎年ダイハツ工業のブースで車両・商品展示を行うなど深い関係を持つブランド。っており、全ダイハツディーラーでも唯一商品の取り扱いがある。またかつてダイハツのワークス活動を率いたDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)の名を冠する競技向けパーツの販売も行っている。また元々のDRSの母体であったDCCS(正式名称はディーシーシーエス)DCCSは現在も[[長野県]][[佐久市]]に存在する。
 
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