「ジョルジュ・ビゼー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
36行目:
ジョルジュ・ビゼーは[[1838年]]、[[パリ]]に生まれた。最初につけられた名前は'''アレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー''' (Alexandre-César-Léopold Bizet) だったが、[[洗礼]]時に改名された。
 
父は[[声楽]]教師、母は[[ピアニスト]]で、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳で[[パリ音楽院]]に入学し、[[フランソワ・マルモンテル]]、[[シャルル・グノー]]、ユダヤ人[[ジャック・アレヴィ]]らに師事して[[ピアノ]]、[[ソルフェージュ]]、[[オルガン]]、[[フーガ]]で一等賞を獲得した。19歳で[[カンタータ]]『クローヴィスとクロティルデ』で[[ローマ大賞]]を獲得。[[1861年]]には[[フランツ・リスト|リスト]]の新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私と[[ハンス・フォン・ビューロー]]だけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけリストを驚かせた。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。
 
[[オペラ]]などの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときのオペラ『[[真珠採り]]』でオペラ作曲家の地位を確立する。その後、フランス人の作家[[アルフォンス・ドーデ]]の劇『[[アルルの女]]』の付随音楽や、オペラ『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』などを作曲したが、1875年3月にパリの[[オペラ=コミック座]]で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わった。ヒロインの声域をそれまでに一般的だった[[ソプラノ]]ではなく[[メゾソプラノ]]に設定したことも新しさの一つだった。
 
[[1869年]]にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚した。師は既に1862年に亡くなっていた。ビゼーは『カルメン』初演の約3ヵ月後である[[1875年]][[6月3日]]、[[敗血症]]のため36歳で死去したが、のちビゼーの音楽は世界的に認められるようになった。
 
なお、妻のジュヌヴィエーヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド財閥]]の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。ジャックの学友の[[マルセル・プルースト]]が後に小説『[[失われた時を求めて]]』の中で、彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。