「井上篤太郎」の版間の差分

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当時の京王電気軌道は、[[京王線の新宿駅付近の廃駅|新宿追分駅]]〜[[府中駅 (東京都)|府中駅]]間の軌道線開業は実現したものの、府中駅から東八王子駅間の建設資金に窮していた。そこで、富士紡の和田豊治が京王の経営を引き受け、井上を専務として送り込んだのであった。
 
井上は、和田の期待に応えて、電灯電力供給事業の拡大と、京王線の全線開通を実現する。さらに、バス事業への進出・拡大、[[京王閣|多摩川原遊園・京王閣]]などのレジャー施設の建設、[[千歳烏山駅]]付近の都市開発、母校の明治大学をはじめ京王沿線への学校誘致や施設誘致など軌道事業の安定化も進めた。
 
井上は、京王電気軌道の取締役社長、取締役会長を歴任し、約30年近く同社の経営を担った。会社の規模は決して大きくはなかったが、電灯電力供給事業と軌道業の二本柱で、京王の業績は好調だった。[[太平洋戦争]]の開戦直前、[[電力統制令]]により主力事業の配電事業が国策により国家に強制移管され、経営基盤が弱体化。さらに、[[陸上交通事業調整法]]の趣旨を説いて周辺私鉄の統合を進めていた東京急行電鉄社長[[五島慶太]]が、京王の大株主[[大日本電力]]から京王株の譲渡を受け、京王は東急への統合を余儀なくされる。
 
井上は、京王の東急への合併を終始一貫反対し、あくまでも自主独立経営を主張した。大日本電力の社長で、京王の社長も務めていた[[穴水熊雄]]も、井上の意向を尊重し、五島からの持株譲渡の要請を断り続けていたが、時勢に逆らうことができず、最終的には譲渡に同意した。[[1944年]]、京王線は合併により東急京王営業局として戦時輸送を担うことになった。井上は合併に伴い経営の第一線から引退し、東京急行電鉄相談役に就任した。京王からは、井上の片腕であった取締役の[[後藤正策]](後に京王帝都電鉄取締役)、社長の穴水熊雄の次男[[穴水清彦]](後に[[相模鉄道]]会長)が、東急取締役に就任した。なお、井上は、社長を辞任する際の退職慰労金の15%を従業員に配分し、50%を郷里に寄付し、小学校建設(厚木市立三田小学校/寄付による校舎は昭和48年まで利用された)、橋の建設(才戸橋/寄付による橋は昭和61年まで利用された)のために資産を提供した。死去する半年前、井上が心血を注いで育てた京王電気軌道は、新会社・京王帝都電鉄として東急より分離独立し、現在に至っている。
 
1934年、[[明治大学]]専務(財務)理事に就任、1946年8月14日<ref>『官報』第5881号、昭和21年8月21日。</ref>から翌年にかけては[[貴族院勅選議員]]を務めた。生糸および絹紡績の特許権十数件をもつ。