「殤公 (衛)」の版間の差分

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殤公5年([[紀元前554年|前554年]])夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。
 
殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、殖が[[卒去]]し、その後を子の[[甯喜]](甯悼子)が継いだ。
 
殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]に注意された。
殤公11年([[紀元前548年|前548年]])5月、殤公はふたたび晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。
 
殤公12年([[紀元前547年|前547年]])、先君の献公が何度か喜に帰国を求めたため、2月に甯喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と[[太子]]の角を殺して献公を迎えた<ref>『史記』では「孫林父が甯喜に敗れて晋に出奔すると、晋の[[平公 (晋)|平公]]に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の[[景公 (斉)|景公]]も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と甯喜を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。」とあり、殤公が殺されたとは書いていない。</ref>。
 
== 脚注 ==
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