「大坂の陣」の版間の差分

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出典貼付「応仁の乱からの戦終結を元和偃武と名付けた」説の基本書
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この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった<ref name="kasayahokoji"/>。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、当時の[[諱]]に関する常識から鑑みれば<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく<ref name="kasayahokoji"/>、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった<ref name="kasayahokoji"/>。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある<ref name="kasayahokoji"/>。家康のこの件に対する追求は執拗であったが<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている<ref name="watanabehokoji"/>。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している<ref>渡邊大門『[[#渡邊|大坂落城]]』p178、p187</ref>。なお鐘と銘文は、方広寺にそのまま残され、現代に至っている。
 
== 大冬の陣 ==
[[画像:Osaka_no_eki_winter.png|thumb|360px|冬の陣布陣図(慶長19年12月)[[media://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Osaka_no_eki_winter.png| 拡大]]]]
 
=== 豊臣方の準備 ===
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=== 天王寺・岡山合戦 ===
[[画像:Osaka_no_eki_summer.png|thumb|360px|夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)[[media://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Osaka_no_eki_summer.png| 拡大]]]]
{{main|天王寺・岡山の戦い}}
[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]、豊臣軍は現在の[[大阪市]][[阿倍野区]]から[[平野区]]にかけて迎撃態勢を構築した。