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武帝[[石虎]]の三男([[庶子]])として生まれる。[[建平 (後趙)|建平]]4年([[333年]])に代王、[[建武 (後趙)|建武]]3年([[337年]])に公となる。建武11年([[345年]])に失政で[[関中]]から[[ギョウ|鄴]]に戻らされた。[[太寧 (後趙)|太寧]]元年([[349年]])に第4代皇帝の[[石世]]が[[石遵]]によって殺され、その石遵も[[冉閔|石閔]]によって殺されると、石閔に擁立されて即位した。石閔を大将軍に、李農を大司馬にそれぞれ任命した。
 
このような経緯から実権は石閔に掌握されており、傀儡皇帝に等しかった。[[石苞 (後趙)|石苞]]に夜襲をさせたが失敗し、石苞は口封じに殺された。[[石祗]]が[[襄国]]から石閔誅殺の檄を飛ばし、鄴では暗殺計画が発覚した。羯族石閔兵士3千が胡人の天下の為に石閔を誅殺しようとし、30人が宮中に乗り込んだが全員殺された。石閔は非漢族の武器所有者を斬ると宣言し、大量の非漢族が出て行った。石閔は「自分の考えに賛同する者はここにいろ」と言うと、近郊の漢族は入城し、非漢族は出て行った。非漢族が味方にならないと悟った石閔は20万人の非漢族を殺した。翌[[青龍 (後趙)|青龍]]元年([[350年]])、石閔によって国号を「'''衛'''」と変えられ、石閔自身も李姓に改めさせられた。石閔と李農が反乱軍の討伐で出た時に、石鑑は宦官を通じて自分の味方を呼び込もうとしたが、その宦官から報を受けて軍を返した石閔と李農に殺された。その在位は103日だった。石虎の孫38人を含む殺せるだけの石氏は全て殺された。
 
== 宗室 ==