「鳥山石燕」の版間の差分

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[[狩野派]][[門人]]として[[狩野周信]](かのう ちかのぶ。[[狩野派#江戸時代中期以降|cf.]])及び玉燕に付いて[[絵画|絵]]を学んだといい、[[御用絵師]]であったと伝わるが詳しい事蹟は不明な点も多い。[[俳諧]]は東流斎燕志の門人であったとされる。
 
画業としては肉筆画作品や鬼子母神([[東京都]][[雑司ヶ谷]])の『大森彦七図』、円融寺([[埼玉県]][[秩父市]])の『[[平景清|景清]]牢破りの図』などの奉納額が主なものであったと見られている。奉納額の絵に歌舞伎役者の似顔を用いたことで評判をあつめたという。浮世絵師のひとりと目されているが美人画や役者絵として版行された[[錦絵]]作品はほとんど確認されていが、版本にはとしての作品が多く残されており、いる。浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも・1774年)であると伝えられている。俳人としても広く活動しており、そのあつまりの句集に句と絵を寄せていたりもする。
 
弟子は多く著名な人物では、[[喜多川歌麿]]や[[恋川春町]]、[[栄松斎長喜]]、[[歌川豊春]]などを育てており、それぞれのちに浮世絵師・戯作者などとして大きく成長している。