「若槻禮次郎」の版間の差分
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|所属政党 = ([[立憲同志会]]→)<br/>([[憲政会]]→)<br/>[[立憲民政党]]
|称号・勲章 = [[正二位]]<br/>[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br/>[[男爵]]<br/>[[法学士]](帝国大学・[[1892年]])
|親族(政治家) =
|配偶者 = 若槻德子(従妹)
|子女 = [[若槻有格]](長男)<br/>田原繁子(長女)
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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[松江藩]]の下級武士([[足軽]])奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。
実母・クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い[[淀川]]沿いの[[大山崎町|山崎]]で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務め
奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、
奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して[[寺子屋]]に通った<ref group="注釈">若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない木刀であった」という。</ref>。
小学校を出ると[[漢学]]塾へ通うが、1年後にやめて[[島根県立松江北高等学校|教員伝習校内変則中学科]]に入る。しかし家が貧乏で学資が続かず、在学8ヵ月か9ヵ月で中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをした。
16歳のころから3年ほど、小学校[[代用教員]]をする。[[明治]]15年([[1883年]])、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。
その翌年、[[司法省法学校]]が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は[[東京]]まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、[[能義郡]]長をしていた叔父・
=== 学生時代 ===
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また帝国議会終盤の3月14日、[[衆議院]][[予算委員会]]で大蔵大臣・[[片岡直温]]は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て[[東京渡辺銀行|渡辺銀行]]が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で[[取り付け騒ぎ|預金者が殺到]]し、休業に追い込まれてしまう。これにより[[昭和金融恐慌]]が勃発した。
[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]のあと不景気に悩まされていた
若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、[[枢密院 (日本)|枢密院]]は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは[[大日本帝国憲法|憲法]]違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に[[内閣総辞職]]し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。
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*:[[岸清一]]は幼い頃、奥村家に遊びに行ってヤオに叱られたこともあったらしく、後年、次のように回顧している。「ヤオという人は私の母の妹といわれていたが、頭がいいかどうかは疑問があるが、ともかくやかましい叔母であった、ということを記憶している」<ref>豊田『宰相・若槻礼次郎』174頁。</ref>。
* 姉・'''イワ'''
* 兄・'''
** 同妻・'''テツ'''([[法学博士]]、IOC委員、大日本体育協会会長・[[岸清一]]の姉<ref name=sa172/>) - ヤオの姪
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