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== 略歴 ==
[[山梨県]][[北巨摩郡]][[高根町]](現[[北杜市]])に生まれた。高等小学校修了間際に上京し、夜学に通いながら、[[大衆演劇]]の世界にはいる。そのなかで、社会の矛盾にめざめ、[[傾向映画]]作品の舞台化をめざす劇団わかもの座に参加する。1940年、演劇活動のなかで右翼の襲撃をうけ、そのトラブルのなかで[[治安警察法]]違反に問われて、下獄した。戦時中は南洋群島の[[チューク諸島|トラック島]]に送られ、流刑囚の生活を送った。
 
戦後出獄したあと文学の道を選ぶ。[[清瀬市|清瀬村]]にあった[[国立病院機構東京病院|国立療養所]]に勤務するなかで、[[小沢清]]らと新日本文学会の下部のサークルを、[[小沢清]]たちとつくる。1949年、[[新日本文学会]]に入会する。その後、新日本文学会の北多摩班に加わり、[[霜多正次]]・[[西野辰吉]]たちと知り合う。1952年、霜多や西野のほか、[[金達寿]]らとともに同人誌『文学芸術』を創刊、創刊号に米軍基地の労働実態を描いた「フィンカム」を発表し、注目を集める。
 
1956年には、「ある党員の告白」を発表し、戦後の[[日本共産党]]の暗部を描いた作品として、ジャーナリズムの寵児になりかかった。しかし、そうした暴露的な作品に対して反省し、人々の生活の実態と、社会の矛盾にたいするたたかいを描く作品を書こうと志した。そして、「現実変革をめざすリアリズム文学」をめざして、1957年に霜多・西野・金たちと[[リアリズム研究会]]を結成した。1961年には、川崎の[[日本鋼管]]の社外工のたたかいに材をとった長編「海と起重機」を発表し、長編作家としての力量を明らかにし、その後もいくつもの長編小説を書いた。1965年、[[日本民主主義文学会|日本民主主義文学同盟]]の結成に参加し、最初の事務局長を務めた。