「杉本栄一」の版間の差分

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東京生まれ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E6%A0%84%E4%B8%80-83554 コトバンク]、2017年5月17日閲覧。</ref>。旧制[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]を卒業後、旧制[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]([[一橋大学]]の前身)で[[福田徳三]]の[[ゼミナール]]に学ぶ。大学の同期に[[白南雲]](元[[朝鮮民主主義人民共和国]][[最高人民会議]]議長)らがいる。
 
福田門下の学者としてはただ一人、[[マルクス経済学]]を専攻していたため、母校に残ることが困難であった。卒後は福田の下で勉強を続けていたが、福田の強い後押しがあったものの、教授会の承認が得られず、1927年、[[渋沢栄一]]の孫である[[尾高豊作]]や[[尾高朝雄]]の支援を得て設立され、大塚が所長を務める東京社会科学研究所の研究員に、[[高島善哉]]とともに就任<ref>[[高橋彦博]][http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/479/479-1.pdf 「東京社会科学研究所の社会実験」]法政大学</ref>。

1929年に学部ではなく専門部助教授発令の直後に、福田の働きかけを受けた[[文部省]]の令を受けヨーロッパに留学することとなる。当時専門部の助教授を務めていたのは、杉本のほかは、体操の教員だけであった。
 
留学中は、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]などに学び、[[新明正道]]とともに[[カール・コルシュ]]に師事するなどしたのち、[[キール (ドイツ)|キール]]の景気変動の研究所で[[ワシリー・レオンチェフ]]と机をならべ研究にあたった。