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1988年、南海ホークスが[[ダイエー]]に売却され[[福岡市]]に移転した後、[[1989年]]と[[1990年]]に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]が準本拠地として年間10試合程度の主催試合を開催した。1990年6月の近鉄対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦では、当時近鉄の新人だった[[野茂英雄]]が先発登板して完投勝利をあげ、100奪三振到達のシーズン最速記録を打ち立てた(従来の最速は[[江夏豊]])。最後のプロ野球公式戦は1990年8月2日の近鉄対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブレーブス]]戦で、最後の本塁打は延長10回表に[[ブーマー・ウェルズ]]が放った勝ち越し3ランホームランだった。なお、この時点では同年限りでの閉鎖は決定していなかったが、将来的な取り壊しは既定路線だったため、この試合が最後のプロ野球公式戦になるとの噂が広がり、平日の同カードとしては異例の29,000人が詰めかけた。
 
本球場は既に球団売却前の[[1986年]]頃から[[関西国際空港]]の建設開始に伴う難波地区再開発計画によって数年以内に解体撤去することで決まっていたが、後のバブル崩壊などにより計画が次々に凍結。長年放置状態が続き、末期はグラウンド部を使って[[住宅展示場]]「なんば大阪球場住宅博」として利用されていた。グラウンド内にモデルハウスが建ち並んでいた一方、観客席やスコアボードもそのまま残され<ref>{{Cite news | url = https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180606-00221430-toyo-soci | title = 閑古鳥の住宅展示場、それでも変わらぬ体質 | newspaper = [[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]] | publisher = 東洋経済新報社 | date = 2018-06-06 |accessdate=2018-06-08}}</ref>、これは野球場としては非常に珍しい使用例として海外の建築専門誌にも紹介された。また、全面的な解体工事が始まる直前までは一部分を改装してウインズ難波が入居していた。この当時の本球場の状態は[[宮部みゆき]]の小説「[[火車 (小説)|火車]]」にも登場する。球場としての役目を終えた後はグランドも舗装され、駐車場としても利用されていたが、[[エンターテインメント]]としての活用は[[劇団四季]]が常設小屋としてキャッツシアターを設置し、[[ミュージカル]]「[[キャッツ]]」の[[ロングラン]]公演を行なった。また、[[阪本順治]]監督・[[赤井英和]]主演の映画「王手」も特設テントが組まれ上映された。
 
[[全国高等学校野球選手権大阪大会]]でも1990年の72回大会まで使われたが、本球場の野球場機能の廃止に伴い大阪府内での球場が不足していたことから、一部の試合を兵庫県の[[阪急西宮スタジアム]]と[[奈良県]]の[[奈良市鴻ノ池球場]]で[[1991年]]の73回大会から[[1993年]]の75回記念大会の期間に越県開催している。