「コロルノの戦い」の版間の差分

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| combatant2 = {{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[ハプスブルク帝国]]
| commander1 = {{flagicon2|Kingdom of Sardinia|1720}} [[カルロ・エマヌエーレ3世]]<br />{{flagicon|Kingdom of France}} [[フランソワ=マリー (初代ブロイ公爵)|フランソワ=マリー・ド・ブロイ]]<br />{{flagicon|Kingdom of France}} {{仮リンク|フランソワ・デュ・フランクトー (コワニー公)|label=フランソワ・ド・フランクトー・ド・コワニー|en|François de Franquetot de Coigny}}<br />{{flagicon|Kingdom of France}} {{仮リンク|ノエル・ジュルダ・ド・ヴォー|en|Noël Jourda de Vaux}}
| commander2 = {{flagicon2|Habsburg Monarchy}} {{仮リンク|[[クロード・フロリモン・ド・メルシー|en|Count Claude Florimond de Mercy}}]]<br />{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} {{仮リンク|フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク=ヴィンネンタル|en|Frederick Louis of Württemberg-Winnental}}<br />{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} レオポール・マルク・デ・リュネヴィル
| strength1 = 65,000
| strength2 = 60,000
すでに81歳の老将[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール]]元帥はイタリア軍を率いていたが、彼は[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]に面会するためにフランスへ帰国したため(1734年6月17日に道中の[[トリノ]]で死去)、フランス軍の指揮は元帥に叙された[[フランソワ=マリー (初代ブロイ公爵)|フランソワ=マリー・ド・ブロイ]]と{{仮リンク|フランソワ・デュ・フランクトー (コワニー公)|label=フランソワ・ド・フランクトー・ド・コワニー|en|François de Franquetot de Coigny}}が継いだ。サルデーニャ軍は王の[[カルロ・エマヌエーレ3世]]自らが率いた。
 
オーストリア軍は{{仮リンク|[[クロード・フロリモン・ド・メルシー|en|Count Claude Florimond de Mercy}}]]と{{仮リンク|フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク=ヴィンネンタル|en|Frederick Louis of Württemberg-Winnental}}が率いたが、二人の意見の相違により戦闘の準備は緩慢にしか進まなかった。1734年2月から4月までの間、オーストリアと神聖ローマ帝国軍は[[マントヴァ]]に集結、当時の新聞では6万人とされた。その後、オーストリア軍は[[パルマ]]へ移動、5月2日にポルトーレ({{lang|it|Portole}})とモンテ・ディ・サン・ベネデット({{lang|it|Monte di San Benedetto}})の2箇所に橋を架けて[[ポー川]]を渡河し、[[ノヴェッラーラ]]と[[ミランドラ]]と[[グアスタッラ]]を占領、{{仮リンク|ソルボロ・レヴァンテ|it|Sorbolo a Levante}}と{{仮リンク|セッラグリオ・マントヴァーノ|it|Serraglio mantovano}}に軍の大半を配置した。
 
フランス軍は[[カザルマッジョーレ]]の高地でポー川を渡った後、パルマの北、コロルノ近くのサッカ({{lang|it|Sacca}})の高地で要塞化された防御線を築いた。サルデーニャ軍2万人はサングイニャ({{lang|it|Sanguigna}})に布陣、これに5個大隊と砲兵隊が加わり、{{仮リンク|コロルノ公宮殿|en|Ducal Palace of Colorno}}の守備に就いた。
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