「バスケット・メーカー文化」の版間の差分

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バスケット・メーカーII期文化は、[[古期]](Archaic)の文化と後の[[プエブロ文化]]との移行期と考えることができる。掘り棒を用いたある程度の[[カボチャ]]と[[トウモロコシ]]の耕作が見られるが[[マメ科]]の作物を栽培した痕跡はまったく見られない。
野生の植物食と言える草の実や[[アマランス]]の実、[[ピノン]](pinon)という[[松]]の一種がつける食用の実を採集するのが狩猟とともに重要であった。バスケット・メーカーII期の人々の生活の痕跡を示す遺跡は、農耕に適した土と水のある場所であるとともに狩猟採集が容易であることも考えた立地に点在している。バスケット・メーカーII期で典型的なのは、秋と冬に渓谷の水源となる泉の近くに大規模で中心的な移動性集落(「キャンプ」)を営み、ふだんの暖かい季節は、散在的に小さなキャンプを築く。また岩陰を貯蔵や死者の埋葬のほか居住の用に用いることもあった。食物の貯蔵は、堅い洞窟の床面を甕状にくりぬくかやわらかい土の堆積層に平石を積み重ねて漆喰で塗り固めて棺おけ状にするか、丸い巨石同士の空間を利用した。円形プランを持つ住居は西側は深く、東側は浅い構造に並べて散在的に築かれた。この時期の[[土器]]は、東部の一部を除いてほとんど見られない。後の文化につながるような灰色の土器ではなく[[モゴヨン文化]]の影響を受けた褐色の土器が見られる。食物の運搬には丈夫に編んだバッグやさまざまなまき方をして編んだバスケットを食用にする植物、木の実、草の種を採集するのに用いた。かごにはふるいに使う皿状のものや椀状のもの、食物を集めて運ぶための円錐状の「[[びく]]」などがあった。狩猟には、堅い木を柄にした[[槍]]を投槍器で飛ばして獲物を捕らえた。鋭く削られた棒やおおきな[[ウサギ]]用の網などさまざまなわなを用いていた。主な獲物は、[[シカ|鹿]]、[[ヤギ]]、[[ノウサギ|野うさぎ]]であったと思われる。製粉具は、古期段階の粉挽き用の平石と丸石状の[[マノ]]を使用していた。ときどき中核的な移動性集落の遺跡から[[メタテ]]に似せて溝状のくぼみを持つ重いすり石が発見されることがある。家畜類については、[[イヌ|犬]]は飼っていたが、[[シチメンチョウ|七面鳥]]が遺跡から確認されるものの飼育していたかは不明である。バスケット・メーカーII期をA.D.50を境に前期と後期にわけ、後期には、浅めの竪穴住居跡や貯蔵穴が一般化して、[[シャーマニズム]]の儀式や岩絵などが描かれるようになった時期と位置づけることもある。
 
== バスケット・メーカーIII期(A.D.400頃~A.D.700頃) ==