「レオン・バッティスタ・アルベルティ」の版間の差分

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アルベルティ家は[[フィレンツェ]]において銀行を営む有力商人貴族であったが、[[教皇派と皇帝派|グエルファ党]]に属していたため、[[教皇派と皇帝派|ギベリン党]]との抗争によって[[1387年]]に国外追放された。レオンはロレンツォ・アルベルティの[[庶子]]として亡命先の[[ジェノヴァ]]に生まれ、[[1414年]]には[[ヴェネツィア]]に移住した。早くから英才教育を受け、[[パドヴァ]]で古典学と数学を学んだ後、[[1421年]]に[[ボローニャ大学]]に進んだ。彼はそこで教会法で学位を取得し、[[1428年]]に卒業。以後は[[1432年]]に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパを歴訪した。 1428年には、アルベルティ家への追放命令が解除されたためフィレンツェを訪れ、[[1434年]]には[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]とともに再訪するが、そこで[[フィリッポ・ブルネレスキ]]、[[ドナテッロ]]、[[マザッチョ]]と親交を結んだ。[[1436年]]には、彼らに『絵画論(Della pittura)』を献呈している。
 
[[1432年]]頃、[[ローマ]]に移住し、親友であった[[フラーヴィオ・ビヨンド]]の仲介により、教皇庁の記念物監督官となった。エウゲニウス4世は、すでに建築事業顧問であった[[ベルナルド・ロッセリーノ]]にアルベルティの助言を仰ぐことを指示し、[[1453年]]から断続的にアクア・ヴェルジネの水路修復と[[トレヴィの泉]]の造営を行った。しかし、トレヴィの泉は[[1732年]]から全面的に改修されたため、彼らの作品をみることはできない。教皇庁において、アルベルティは[[キケロ]]などの[[古代ローマ]]時代の人文学に傾倒した。特に彼の目を引いたのは、[[ウィトルウィウス]]の『建築について』であったと考えられる。アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、[[1451年]]までに著書『建築論(De re aedificatoria)』を完成させた<ref name=Ikegami>{{Cite book|和書 |author = [[池上英洋]] |year = 2014 |title = 西洋美術史入門 実践編 |publisher = [[筑摩書房]] |page = 96 |isbn = 978-4-480-68913-9}}</ref>。彼は、この論考に死ぬまで手を入れており、[[1485年]]になってフィレンツェで刊行された(原本・初版ともにラテン語である。イタリア語訳のものは、[[1546年]]にヴェネツィアで発刊された)。[[File:Alberti_-_De_re_aedificatoria,_1541.djvu|thumb|page=7|''De re aedificatoria'']]
 
アルベルティは、フィレンツェの有力な商人であったジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライと親しく、[[1446年]]に起工されたパラッツォ・ルチェライの設計を行っている。これは全面的にオーダーを用いた最初の例で、ファサードは明らかにローマの[[コロッセウム]]を参考にしている。その後、彼は[[ルカ・デッラ・ロッビア|ルーカ・デッラ・ロッビア]]とともに[[リミニ]]の[[シジズモンド・マラテスタ]]公に召喚され、[[1446年]][[10月31日]]に、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事が起工する(これはシジズモンド・マラテスタ公の失脚と死により未完に終わった)。
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*福田晴虔 『アルベルティ イタリア・ルネサンス建築史ノート2』 中央公論美術出版、2012年8月-横書き表記
*アンソニー・グラフトン 『アルベルティ イタリア・ルネサンスの構築者』 森雅彦ほか訳、[[白水社]]、2012年9月
 
== 脚注 ==
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==関連項目==