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=== 天正壬午の乱における動向 ===
天正10年([[1582年]])3月、[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた家康は[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である[[穴山信君|穴山梅雪]]からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく[[大久保忠世]]に引き渡している。{{要出典範囲|田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。|date=2018年6月|note=1}}自領の[[春日城 (信濃国佐久郡)|春日城]]<ref>[[長野県]][[佐久市]]春日。</ref>へ帰還した。
 
同年6月2日、[[本能寺の変]]が起こり、[[北条氏直]]との戦い([[神流川の戦い]])に敗れた[[滝川一益]]が同20日に家臣・[[道家正栄]]の守る[[小諸城]]<ref>長野県[[小諸市]]。</ref>に入ると、22日に信蕃は一益と対面し佐久・小県郡の人質を集め、一益に引き渡した<ref name="hirayama">{{Harvnb|平山}}</ref>。この人質には嫡子・[[依田康国]]や[[真田昌幸]]の母・[[恭雲院]]が含まれていたという。一益は27日に小諸城を信蕃に明け渡して旅立ち、28日には諏訪から木曽谷に入り、当初の約定通り佐久・小県郡の人質を[[木曾義昌]]に委ね、7月1日に伊勢長島に帰還した。9月17日、佐久・小県郡の人質は、義昌から徳川家康に引き渡された<ref name="hirayama"/>。