「榴岡公園」の版間の差分

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[[ファイル:Tsutsujigaoka Park in the cherry blossom season.jpg|thumb|桜の季節の榴岡公園(2008年4月)]]
'''榴岡公園'''(つつじがおかこうえん)は、[[宮城県]][[仙台市都心部]]の東側にある[[撓曲宮城野区]][[丘陵]]「[[地<ref>地質学の研究論文などで宮城野撓曲]]」(みやぎのうきょく)、すなわち、呼ばれる。</ref>にある[[歌枕都市公園]]である。躑躅岡(つつじがおか)は古くから[[歌枕]]として詠まれていた地名であり、また[[江戸時代]]に[[仙台藩]]主[[伊達綱村]]がこ南西部地に桜占め植樹して民衆に開放したことから、当時から現在に至まで[[都市公園花見]]の名所でもある
 
== 概要歴史 ==
{{右|
「[[ツツジ]](躑躅)の[[名所]]」として古くから知られる[[歌枕]]「躑躅岡」に[[17世紀]]末、[[仙台藩]]主・[[伊達綱村]]が[[馬場]]などを開設して[[サクラ]](桜)を植え、四民に開放した。すると当地は「'''桜の馬場'''<ref name="Archive15">{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/koubun/tayori/tayoriNo15.pdf 収蔵資料の紹介「榴ヶ岡の公園整備と桜」]}}(宮城県公文書館だより 第15号)</ref>」と称され、サクラの名所となった。
[[ファイル:Sendai map circa 1930.PNG|thumb|none|[[1927年]]([[昭和]]2年)頃の仙台市および近郊地図。地図の30番が歩兵第4連隊兵営。31番が釈迦堂。32番が榴岡公園。]]
[[ファイル:Aerial photo of Tsutsujigaoka-kōen Park in 1975.jpg|thumb|none|[[1975年]]度([[昭和]]50年度)撮影の{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Aerial photo of Tsutsujigaoka-kōen Park in 1984.jpg|thumb|none|[[1984年]]度([[昭和]]59年度)撮影の{{国土航空写真}}]]
}}
現在の仙台市内には、古来に歌枕として詠まれた地名が3つあった。宮城野と玉田横野と、そして躑躅岡である。
 
* [[藤原仲平]] 「[[みちのく]]の つつじが岡の [[クマツヅラ|くまつづら]] 辛しと[[妹]]を [[今日|けふ]]ぞ知りぬる」(『[[古今和歌六帖]]』)<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/sdsgsin/top/backnumber/sdss310/data/03/genryuwotazunete02.htm 宮城の歴史と文化の源流を訪ねて](仙台地方振興事務所「歌枕で訪ねる[[仙台|仙臺]]探訪」)</ref>
* [[藤原道綱母|右大将道綱の母]] 「みちのくの [[千賀ノ浦|千賀の浦]]にて 見ましかば いかにつつじの [[をかし]]からまし」
* [[藤原多子|二条大后宮肥後]] 「[[東国|東路]]や つつじが岡に 来て見れば 赤[[裳]]の裾に 色ぞかよへる」(『[[夫木和歌集]]』)
* [[道興]][[准后]] 「名にし負ふ つつじが岡の 下わらび 共に折り知る [[春]]の暮れかな」
 
[[平安時代]]末の[[1189年]]([[文治]]5年)、[[源頼朝]]と[[奥州藤原氏]]の[[藤原泰衡]]が戦った[[奥州合戦]]において、泰衡は国分原鞭楯に本陣を置いて頼朝の軍勢に備えた。この国分原は宮城野原であると考えられており、鞭楯は現在の榴岡公園の辺りと推測されている<ref>『仙台市史』通史編2(古代中世)201頁。</ref>。
 
[[関ヶ原の戦い]]の後、[[伊達政宗]]は[[1601年]](慶長5年)[[仙台城]]を築き[[岩出山城]]から移った。この際、[[石巻市|石巻]]の[[日和山 (石巻市)|日和山]]と共に榴岡も築城の候補地だったと言われる。ただし、これは後世に記された文献に見られる話であり、具体的根拠が伴っているわけではなく、信憑性は低いと考えられている<ref>『仙台市史』通史編3(近世1)63-64頁。</ref>。江戸時代になると、躑躅岡に替わって榴岡や榴ヶ岡の表記が一般的になる<ref name="sisi5">『仙台市史』通史編5(近世3)313-314頁。</ref>。
[[1902年]]([[明治]]35年)にこの「桜の馬場」は県立の「'''榴ヶ岡公園'''」として開園する。すると、[[1875年]](明治8年)開園の[[西公園 (仙台市)|桜ヶ岡公園]]が[[仙台市都心部|仙台市中心部]]の[[西]]にあることから「[[西公園 (仙台市)|西公園]]」、当園が中心部の[[東]]にあることから「'''東公園'''」とも呼ばれたが、「西公園」と「榴ヶ岡公園」が各々定着した<ref name="MetroLine2">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/toshi/touzaisenchousei/rekishi/07.pdf 5(仮称)西公園駅]}}(仙台市[http://www.city.sendai.jp/toshi/touzaisenchousei/rekishi/ 「地下鉄東西線の駅と沿線の歴史紹介」])</ref>。
 
[[1650年]]([[慶安]]3年)、[[仙台七崎]]の1つ「玉手崎」の天神社境内に[[仙台東照宮]]が造営され、天神社はその境内社とされたが、仙台藩第3代[[藩主]]・[[伊達綱宗]]によって[[1667年]]([[寛文]]7年)[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]、榴岡に遷宮され[[榴岡天満宮]]となった<ref name="Tenjin">[http://www.tutujigaoka.org/goannai/index1.html 榴岡天満宮御案内](榴岡天満宮)</ref><ref name="sisi4">『仙台市史』通史編4(近世2)125頁。</ref>。また、[[1695年]]([[元禄]]8年)仙台藩第4代藩主・伊達綱村が榴岡天満宮の北東の、現在は宮城県公文書館が建っている場所に亡くなった生母[[三沢初子]]を供養するための釈迦堂を建立した<ref name="Archive">{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/koubun/H17nenpo.pdf 宮城県公文書館年報 第5号 平成17年度]}}(宮城県公文書館)</ref>。この時、釈迦堂の南側隣接地に[[馬場]]、[[弓道場|的場]]が設置され<ref name="MAP1833">[http://eichi.library.pref.miyagi.jp/ezu/84.html 御城下町割絵図]([[宮城県図書館]]。年代:推定[[1833年]]([[天保]]4年)) … 地図上には「[[弓道場|マトハ]]」「[[馬場|ハ&#x3031;]]」と書かれている。</ref>、合わせて[[シダレザクラ]]、[[マツ]]、[[カエデ]]など千本余が植栽されて、「桜の馬場」と称さるようになった<ref name="Archive15">{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/koubun/tayori/tayoriNo15.pdf 収蔵資料の紹介「榴ヶ岡の公園整備と桜」]}}(宮城県公文書館だより 第15号)</ref>。当時の文献『仙府年中往来』には榴岡で花見を楽しむ庶民の様子が描き出されている<ref name="sisi5"/>。榴岡は「四民遊覧の地<ref name="forest100">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/kensetsu/soumu/gaiyou/pdf/03-1.pdf 百年の杜推進事業の概要]}}(仙台市)</ref>」あるいは「士民遊興の場<ref>『仙台市史』通史編6(近代1)78頁。</ref>」と称され、芝居や相撲の興行が許され、門前に茶屋町が置かれるなど<ref name="sisi5"/>、仙台における[[公園]]の嚆矢となった<ref name="forest100"/>。釈迦堂の周囲に庶民が集まる場所が設けられた背景として、庶民の参詣が母の供養に繋がるという綱村の考えがあったことが『伊達綱村釈迦堂建立本願覚書』に見て取れる<ref name="sisi5"/>。
西公園が[[ソメイヨシノ]](染井吉野)を主とするのに対して、榴岡公園は[[シダレザクラ]](枝垂桜)を主としている。
 
[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]]から[[1817年]])の大火により桜が焼失した。
 
「桜の馬場」は[[1902年]]([[明治]]35年)に宮城県が管理する榴岡公園として開園した<ref>『仙台市史』通史編6(近代1)79頁。</ref>。すると、[[1875年]](明治8年)開園の[[西公園 (仙台市)|桜ヶ岡公園]]が[[仙台市都心部|仙台市中心部]]の西にあることから「[[西公園 (仙台市)|西公園]]」、榴ヶ岡公園が中心部の東にあることから「東公園」とも呼ばれたが、「西公園」と「榴ヶ岡公園」が各々定着した<ref name="MetroLine2">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/toshi/touzaisenchousei/rekishi/07.pdf 5(仮称)西公園駅]}}(仙台市[http://www.city.sendai.jp/toshi/touzaisenchousei/rekishi/ 「地下鉄東西線の駅と沿線の歴史紹介」])</ref>。明治時代の榴岡公園でも引き続き花見が楽しまれていた<ref>『仙台市史』通史編6(近代1)426頁。</ref>。
 
[[1924年]]([[大正]]13年)[[12月9日]]、「榴ヶ岡(桜)」が[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第777号にて[[名勝]]に指定された<ref name="NDL1147529">[{{NDLDC|1147529}} 指定史蹟名勝天然紀念物国宝 第11輯](宮城県史蹟名勝天然紀念物調査会 1937年)</ref><ref name="sisi7">『仙台市史』通史編7(近代2)241頁。</ref>。宮城県内では前年[[3月7日]]に指定された[[松島]]に次いで2例目である<ref name="NDL1147529"/>。これを記念として1928年([[昭和]]3年)にサクラ100本が植えられた。[[1928年]]([[昭和]]3年)の[[4月15日]]から[[6月3日]]の間に行われた[[東北産業博覧会]]では、榴岡公園は第三会場して用いられることになり、日光館や文化住宅がここで展示された<ref>『仙台市史』通史編7(近代2)330-331頁。</ref>。戦中の[[1942年]](昭和17年)榴岡公園の管理が宮城県から仙台市に移された<ref name="sisi7"/>。これと前後して、[[1925年]](大正14年)に後の[[仙石線]]となる[[宮城電気鉄道]]が開業して[[榴ヶ岡駅]]が置かれ<ref>『仙台市史』通史編7(近代2)292頁。</ref>、また戦後の[[1946年]](昭和21年)には[[仙台市電]]の原町線が榴ヶ岡停留場まで延伸した<ref>『仙台市史』通史編7(近代2)318頁。</ref>。
 
[[1968年]](昭和43年)[[3月14日]]、枯死により「榴ヶ岡(桜)」の名勝指定は解除された<ref>『仙台市史』通史編8(現代1)5528頁。</ref>。[[1971年]](昭和46年)宮城県図書館の建設に伴い、榴岡公園の礎の一端であった釈迦堂は榴岡の孝勝寺に移された。
 
この時までの榴岡公園は、現在の榴岡公園北西部の一部分に当たる。現在の榴岡公園で広場などになっている中央部は、明治時代から戦中にかけて陸軍の[[歩兵第4連隊]]の兵営があり<ref>『仙台市史』通史編6(近代1)51頁。</ref>、戦後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]には[[1956年]](昭和31年)まで進駐軍がその兵営を接収してキャンプ・ファウラー ({{lang-en-short|Camp Fowler}}) として使用していた<ref>『仙台市史』通史編8(現代1)18-19頁。</ref><ref name="sisi9">『仙台市史』通史編9(現代2)546頁。</ref>。その後は[[東北管区警察学校]]がここに置かれた<ref name="TohokuNPA">[http://www.tohoku.npa.go.jp/Templates/kannkugakkou.htm 東北管区警察学校]([[東北管区警察局]])</ref><ref name="sisi9"/>。
 
[[1975年]](昭和50年)[[3月]]に警察学校が多賀城市に移転した<ref name="TohokuNPA"/>。すると、[[1977年]](昭和52年)の仙台市の市制88周年を記念して、[[1976年]](昭和51年)から警察学校跡地を公園用地に組み込んで一体的な整備が始められた<ref>[http://www.city.sendai.jp/toshi/keikan/prize/32.html 第3回仙台市都市景観賞 環境・まちなみ部門「榴岡公園」](仙台市 1991年度)</ref>。この時、榴岡公園と警察学校跡地の境界を南北に走って両区域を分断していた道路が、市道榴岡公園西線<ref>仙台市道宮城野1456号・榴岡公園西線</ref>として榴岡公園の西側に移設された。現在、榴岡公園内でも住所や住居表示が異なるのはこの時の拡張の名残である<ref name="Miyagino40">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/jyukyohyoji/pdf/pdftizu/s40miyagino.pdf 宮城野(昭40)]}}(仙台市「[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/jyukyohyoji/index.html 仙台市の住居表示実施状況]」 2.実施地区名一覧《実施年降順》)</ref>。榴岡公園の整備は[[1987年]](昭和62年)まで続けられ、広場や緑地、野外音楽堂、集会所が整備されていった<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)176頁。</ref>。歩兵第4連隊の兵営として建築され警察学校としても使われていた建物はこの時にほとんど取り壊されたが、1棟だけが移築され、これが現在、仙台市歴史民俗資料館として使われている<ref name="sisi9"/>。
 
[[1989年]]([[平成]]元年)[[7月28日]]、榴岡公園は[[日本の都市公園100選]]に選ばれた。
 
== 桜の名所として ==
[[ファイル:Ganbarō Tohoku, Tsutsujigaoka no sakura.jpg|thumb|2011年4月、東北地方太平洋沖地震後の「がんばろう東北 榴岡のさくら」にて。この花見イベントは一度は中止が決まったが、鎮魂の祈りをこめ、イベント名称の変更、節電のための規模縮小、時間短縮などのもとで行われた<ref name="kahoku20110410">{{Cite news|title=花見に復興への願いを 仙台・榴岡公園、西公園で開催|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110410t15035.htm|publisher=河北新報|date=2011年4月10日|accessdate=2011年4月18日}}</ref>]]
榴岡公園内には、シダレザクラを中心に約370本の桜が植えられている<ref name="kahoku20110410" />。シダレザクラの内、元禄年間に伊達綱村により植えられた白色や薄紅の一重咲きのシダレサクラは「仙台枝垂桜」とも呼ばれる<ref>[http://www.city.sendai.jp/kikaku/tyousei/matishigen/data/meibk/meibk095/index.html 杜の都の名木・古木](仙台市)</ref>。また、[[八重咲き]]の[[ヤエベニシダレ]](八重紅枝垂)は仙台市長の[[遠藤庸治]]が普及に努めた品種で、子孫樹が[[平安神宮]]などにある。「[[伊達氏|伊達家]]の桜」とも言われ、園内に限らず仙台およびその周辺に多く見られる<ref>[http://heartland.geocities.jp/kazuko_0756/oriori/yaebenisidare.htm ヤエベニシダレ]([[asahi.com]]サイエンス)</ref>。
 
このヤエベニシダレを母とし、ソメイヨシノを父として、[[宮城県師範学校]]の坂庭清一郎が交配させて[[1900年]](明治33年)に誕生したのが[[センダイヨシノ]](仙台吉野)で、原木が[[東北大学植物園]]にある。[[1997年]]([[平成]]9年)より、[[宮城県柴田農林高等学校]]の講師・生徒らが、[[バイオテクノロジー]]技術を用いて増やし、[[1999年]](平成11年)に校内や[[白石川]]公園に植樹した。
 
仙台市青葉区の西公園は榴岡公園と共に仙台市中心部における桜の名所でもあるが、西公園は[[ソメイヨシノ]]を主としている。
 
== 主な施設 ==
[[File:Sendai City Museum of History and Folklore 20090910.JPG|thumb|仙台市歴史民俗資料館]]
*[[仙台市歴史民俗資料館]]
*:[[明治]]期の建築物で、旧[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]・[[歩兵第4連隊|歩兵第四連隊]]の兵舎。県内では最古の木造[[洋風建築]]である。なお、ほぼ同時期の同様な建物である旧第六連隊兵舎が[[愛知県]]の[[博物館明治村|明治村]]に保存されている。
*榴ヶ岡市民センター (旧榴岡公園軽体育館)
*:榴岡公園の南西端にある。利用者専用無料駐車場7台分(うち[[身体障害者]]専用駐車スペース1台分)。公園の東側にある榴ヶ岡市民センターの付属施設。2011年の[[東北地方太平洋沖地震]]で打撃を受け、大規模な修繕が必要となった<ref>{{Cite news|title=教育施設復旧に89億円 仙台市補正予算案|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110413t11023.htm|publisher=[[河北新報]]|date=2011年4月13日|accessdate=2011年4月18日}}</ref>。
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*[[バリアフリー]]トイレ
*駐車場
 
=== 桜 ===
[[ファイル:Ganbarō Tohoku, Tsutsujigaoka no sakura.jpg|thumb|2011年4月、東北地方太平洋沖地震後の「がんばろう東北 榴岡のさくら」にて。この花見イベントは一度は中止が決まったが、鎮魂の祈りをこめ、イベント名称の変更、節電のための規模縮小、時間短縮などのもとで行われた<ref name="kahoku20110410">{{Cite news|title=花見に復興への願いを 仙台・榴岡公園、西公園で開催|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110410t15035.htm|publisher=河北新報|date=2011年4月10日|accessdate=2011年4月18日}}</ref>]]
{{main|ヤエベニシダレ}}
園内には、[[シダレザクラ]]を中心に約370本の桜が植えられている<ref name="kahoku20110410" />。シダレザクラの内、[[元禄]]年間に[[伊達綱村]]により植えられた白色や薄紅の一重咲きのシダレサクラは「仙台枝垂桜」とも呼ばれる<ref>[http://www.city.sendai.jp/kikaku/tyousei/matishigen/data/meibk/meibk095/index.html 杜の都の名木・古木](仙台市)</ref>。また、[[八重咲き]]の[[ヤエベニシダレ]](八重紅枝垂)は仙台市長の[[遠藤庸治]]が普及に努めた品種で、子孫樹が[[平安神宮]]などにある。「[[伊達氏|伊達家]]の桜」とも言われ、園内に限らず仙台およびその周辺に多く見られる<ref>[http://heartland.geocities.jp/kazuko_0756/oriori/yaebenisidare.htm ヤエベニシダレ]([[asahi.com]]サイエンス)</ref>。
 
なお、このヤエベニシダレを母とし、ソメイヨシノを父として、[[宮城県師範学校]]の坂庭清一郎が交配させて[[1900年]](明治33年)に誕生したのが[[センダイヨシノ]](仙台吉野)で、原木が[[東北大学植物園]]にある。[[1997年]]([[平成]]9年)より、[[宮城県柴田農林高等学校]]の講師・生徒らが、[[バイオテクノロジー]]技術を用いて増やし、[[1999年]](平成11年)に校内や[[白石川]]公園に植樹した。
 
== 歴史 ==
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[[ファイル:Sendai map circa 1930.PNG|thumb|none|[[1927年]]([[昭和]]2年)頃の[[仙台市|仙臺市]]および近郊[[地図]]。地図の30番が[[歩兵第4連隊|步兵第四聯隊營]]で、現在は「榴岡公園(五輪)」。31番が[[躑躅岡釈迦堂|躑躅岡釋迦堂]]で、現在は宮城県公文書館。32番が江戸時代の「桜の馬場」で明治からの「榴岡公園(榴ヶ岡)」。]]
[[ファイル:Aerial photo of Tsutsujigaoka-kōen Park in 1975.jpg|thumb|none|[[1975年]]度([[昭和]]50年度)撮影の{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Aerial photo of Tsutsujigaoka-kōen Park in 1984.jpg|thumb|none|[[1984年]]度([[昭和]]59年度)撮影の{{国土航空写真}}]]
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[[仙台平野]]では[[長町 - 利府線|長町-利府断層]]沿いに[[東山道#道路|東山道]]([[街道]])が通るが、同道沿いでは[[律令制]]初期の[[陸奥国|陸奥]][[国府]]と推定される[[郡山遺跡]]([[仙台市]][[太白区]]・[[長町副都心]])が、[[奈良時代]]の[[724年]]([[神亀]]元年)に[[多賀城]]([[多賀城市]])に移転した。また、740年代には同道沿い東側に[[陸奥国分寺]]および[[陸奥国分尼寺]](以上、仙台市[[若林区]])が創建されている。
 
現・仙台市内の同道沿いには[[歌枕]]があり、同道東側の仙台平野が「[[宮城野]]」、同道西側にある[[撓曲]][[丘陵]]の[[宮城野撓曲]]が「榴ヶ岡」である。
 
[[平安時代]]末の[[1189年]]([[文治]]5年)、[[源頼朝]]と[[奥州藤原氏]]・[[藤原泰衡]]が戦った[[奥州合戦]]において、泰衡は同道沿いの[[鞭楯]](宮城野撓曲と推定される)に[[本陣]]を置いた。
 
[[安土桃山時代]]末に[[伊達政宗]]が[[大崎地方]]・[[岩出山城]]から仙台平野に居城を移す際には、街道が通り、周囲が平地で[[城下町]]を造り易い宮城野撓曲に[[平城]]を建てる案と、周囲が断崖に囲まれる[[青葉山 (仙台市)|青葉山]]に[[平山城]]を造る案などがあったとされる(結局、[[1601年]][[1月28日]]([[慶長]]5年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])より青葉山に[[仙台城]]が建設された)。
 
[[1650年]]([[慶安]]3年)、[[仙台七崎]]の1つ「玉手崎」の天神社境内に[[仙台東照宮]]が造営され、天神社はその境内社とされたが、[[仙台藩]]第3代[[藩主]]・[[伊達綱宗]]によって[[1667年]]([[寛文]]7年)[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]、宮城野撓曲で最も[[標高]]が高い同撓曲南西部に[[遷宮]]して[[榴岡天満宮]]とした<ref name="Tenjin">[http://www.tutujigaoka.org/goannai/index1.html 榴岡天満宮御案内](榴岡天満宮)</ref>。
 
[[1695年]]([[元禄]]8年)、仙台藩第4代藩主・[[伊達綱村]]が榴岡天満宮の[[北東]]の宮城野撓曲上、現在は[[宮城県公文書館]]が建っている場所に[[躑躅岡釈迦堂]](つつじがおか しゃかどう)を建立した<ref name="Archive">{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/koubun/H17nenpo.pdf 宮城県公文書館年報 第5号 平成17年度]}}(宮城県公文書館)</ref>。このとき、同堂の南側隣接地の宮城野撓曲上(榴岡天満宮の東側隣接地)に[[馬場]]・[[弓道場|的場]]も設置し<ref name="MAP1833">[http://eichi.library.pref.miyagi.jp/ezu/84.html 御城下町割絵図]([[宮城県図書館]]。年代:推定[[1833年]]([[天保]]4年)) … 地図上には「[[弓道場|マトハ]]」「[[馬場|ハ&#x3031;]]」と書かれている。</ref>、[[シダレザクラ]]・[[マツ]]・[[カエデ]]など千本余を植栽した。また、「四民遊覧の地」として[[演劇]]などの[[興行]]も許可され、仙台の[[公園]]の発祥となった<ref name="forest100">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/kensetsu/soumu/gaiyou/pdf/03-1.pdf 百年の杜推進事業の概要]}}(仙台市)</ref>。当地は現・榴岡公園において[[住所]]が「榴ヶ岡」である区域(以下「榴岡公園(榴ヶ岡)」)にあたり、現在も当園の[[花見]]の中心区域である。
 
[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]]~[[1817年]])の大火により桜が焼失している。
 
[[明治時代]]に入ると、[[1875年]]([[明治]]8年)に[[歩兵第4連隊]]が組織され、「榴岡公園(榴ヶ岡)」の東側隣接地の宮城野撓曲上、すなわち、現・榴岡公園において[[町丁|旧町名]]が[[二十人町通]]、現住所が五輪1丁目である区域(以下「榴岡公園(五輪)」)に設置された。二十人町通には他に、[[1896年]](明治29年)の陸軍幼年学校条例に基いて[[仙台陸軍幼年学校|仙台陸軍地方幼年学校]]([[1924年]]に廃止。跡地には、[[1928年]]に[[商務省]]工芸指導所、[[1930年]]に[[仙台市立宮城野中学校|仙台市宮城野高等小学校]]などが設置された)が設置されるなど、旧[[仙台城]]・二の丸([[第2師団 (日本軍)|第2師団]]ほか)と並んで宮城野撓曲周辺には[[軍事施設]]が集積した。
 
1924年([[大正]]13年)には「榴岡公園(榴ヶ岡)」が[[名勝]]に指定され、記念として1928年([[昭和]]3年)にサクラ100本が植えられた。
 
[[戦後]]の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]には、歩兵第4連隊跡地の「榴岡公園(五輪)」が[[進駐軍]]のキャンプ・ファウラー ({{lang-en-short|Camp Fowler}}) として使用された。
 
[[1947年]](昭和22年)施行の[[旧警察法|(旧)警察法]]によって[[国家地方警察]]・[[仙台警察管区]]([[東北地方|東北6県]]を管轄)が歩兵第4連隊跡地に仙台管区警察学校を設置。[[1954年]](昭和29年)施行の[[警察法]]により同校は[[東北管区警察学校]]に改称した<ref name="TohokuNPA">[http://www.tohoku.npa.go.jp/Templates/kannkugakkou.htm 東北管区警察学校]([[東北管区警察局]])</ref>。<!--1959年(昭和34年)、東北学院高等学校が同校榴ケ岡校舎を榴ヶ岡に設置した。-->[[1965年]](昭和40年)には、二十人町通に[[住居表示]]が実施され、「榴岡公園(五輪)」は五輪一丁目の一部となった<ref name="Miyagino40">{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/jyukyohyoji/pdf/pdftizu/s40miyagino.pdf 宮城野(昭40)]}}(仙台市「[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/jyukyohyoji/index.html 仙台市の住居表示実施状況]」 2.実施地区名一覧《実施年降順》)</ref>。
 
<!--1972年(昭和47年)4月、東北学院榴ケ岡校舎が独立して東北学院榴ケ岡高等学校となり、8月に[[泉市]]市名坂(現・仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]]市名坂)に移転。-->[[1975年]](昭和50年)[[3月]]に警察学校が旧[[多賀城海軍工廠]](占領期は進駐軍「キャンプ・ローパー」)の跡地の一部である[[多賀城駐屯地]]隣接地(多賀城市)に移転した<ref name="TohokuNPA"/>。すると、[[1977年]](昭和52年)の仙台市の[[市制]]88周年を記念して、[[1976年]](昭和51年)から同校跡地を当園に組み込んで一体的な公園整備が始められた<ref>[http://www.city.sendai.jp/toshi/keikan/prize/32.html 第3回仙台市都市景観賞 環境・まちなみ部門「榴岡公園」](仙台市 1991年度)</ref>。このとき、「榴岡公園(榴ヶ岡)」と「榴岡公園(五輪)」の境界を南北に走って両区域を分断していた道路が、市道榴岡公園西線<ref>仙台市道宮城野1456号・榴岡公園西線</ref>として当園の西縁に移設された。
 
[[1989年]]([[平成]]元年)[[7月28日]]に[[日本の都市公園100選]]に指定された。
 
=== 年表 ===
* [[1189年]]([[文治]]5年)、[[源頼朝]]と[[奥州藤原氏]]・[[藤原泰衡]]が戦った[[奥州合戦]]において、泰衡が[[鞭楯]](宮城野撓曲と推定される)に[[本陣]]を置いた。
* [[1667年]]([[寛文]]7年)[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]、[[仙台藩]]第3代[[藩主]]・[[伊達綱宗]]が、現・榴岡公園の西側に天神社を遷宮して[[榴岡天満宮]]とした<ref name="Tenjin"/>。
* [[1695年]]([[元禄]]8年)、仙台藩第4代藩主・[[伊達綱村]]が榴岡天満宮の[[北東]]に[[躑躅岡釈迦堂]]を建立し<ref name="Archive"/>。また、同堂の南側隣接地に[[馬場]]・[[弓道場|的場]]も設置し<ref name="MAP1833"/>、[[シダレザクラ]]など千本余を植栽して「四民遊覧の地」として開放<ref name="forest100"/>。
* [[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]]~[[1817年]])、大火により桜が焼失。
* [[1902年]]([[明治]]35年)、県立公園「榴ヶ岡公園」として開園。
* [[1924年]]([[大正]]13年)[[12月9日]]、「榴ヶ岡(桜)」が[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第777号にて[[名勝]]に指定<ref name="NDL1147529">[{{NDLDC|1147529}} 指定史蹟名勝天然紀念物国宝 第11輯](宮城県史蹟名勝天然紀念物調査会 1937年)</ref>。県内では前年[[3月7日]]に指定された[[松島]]に次いで2例目<ref name="NDL1147529"/>。
* [[1925年]](大正14年)[[6月5日]]、[[宮城電気鉄道]](現[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]])・[[榴ヶ岡駅]]が開業。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[4月15日]]~[[6月3日]]、当園が[[東北産業博覧会]]の第三会場となる。
* [[1946年]](昭和21年)[[12月25日]]、[[仙台市電]]原ノ町線・[[花京院駅|花京院]]~榴ヶ岡の区間が開通。
* [[1948年]](昭和23年)[[5月5日]]、 仙台市電原ノ町線・榴ヶ岡~[[陸前原ノ町駅|原町駅前]]の区間が開通。
* [[1950年]](昭和25年)[[4月20日]]~[[6月25日]]、榴岡天満宮が[[東北こども博覧会]]の会場の1つとなる。
* [[1956年]](昭和31年)、進駐軍が撤収<ref name="MOFtohoku"/>。
* [[1968年]](昭和43年)[[3月14日]]、「榴ヶ岡(桜)」の名勝指定解除。
* [[1971年]](昭和46年)、[[宮城県図書館]](現・[[宮城県公文書館]])の建設に伴い、躑躅岡釈迦堂が[[孝勝寺]](宮城野区[[榴岡]])に移転した。
* [[1975年]](昭和50年)、[[東北管区警察学校]]が移転<ref name="MOFtohoku"/>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[7月28日]]、当園が[[日本の都市公園100選]]に選ばれた。
 
=== 歌枕 ===
* [[藤原仲平]] 『[[みちのく]]の つつじが岡の [[クマツヅラ|くまつづら]] 辛しと[[妹]]を [[今日|けふ]]ぞ知りぬる』([[古今和歌六帖]])<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/sdsgsin/top/backnumber/sdss310/data/03/genryuwotazunete02.htm 宮城の歴史と文化の源流を訪ねて](仙台地方振興事務所「歌枕で訪ねる[[仙台|仙臺]]探訪」)</ref>
* [[藤原道綱母|右大将道綱の母]] 『みちのくの [[千賀ノ浦|千賀の浦]]にて 見ましかば いかにつつじの [[をかし]]からまし』
* [[藤原多子|二条大后宮肥後]] 『[[東国|東路]]や つつじが岡に 来て見れば 赤[[裳]]の裾に 色ぞかよへる』([[夫木和歌集]])
* [[道興]][[准后]] 『名にし負ふ つつじが岡の 下わらび 共に折り知る [[春]]の暮れかな』
 
== 主なイベント ==
*[[花見]](4月中旬頃)人出:約15万人<ref name="kahoku20110410" />
**お花見[[演奏会|ライブ]](於:野外音楽堂)入場無料、期間中の週末4日間程度
**[[すずめ踊り]](於:榴岡公園内グラウンド)入場無料、期間中の週末2日間程度
 
== その他 ==
* 「つつじがおか」という読みは同じであるが、「躑躅ヶ岡」「躑躅岡」「榴ヶ岡」「[[榴岡]]」の4通りの表記が存在する。本来、「躑躅」は[[ツツジ]]、「榴」は[[ザクロ]]を指す。
*[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]]・[[榴ヶ岡駅]]の北側に位置するため「榴ヶ岡公園」と書かれることが多いが、正しい表記は'''榴岡公園'''である。
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* [[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]]・[[榴ヶ岡駅]]から[[徒歩所要時間|徒歩]]1分
* [[駐車場]]
** 一般有料48台(100[[ (通貨)|円]]/[[1時間]]
** 軽体育館利用者専用無料7台。
 
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*[[榴岡天満宮]]
*みやぎ[[NPO]]プラザ<ref>[http://www.miyagi-npo.gr.jp/plaza/index.htm みやぎNPOプラザ](みやぎNPO情報ネット)</ref>(1階)・[[宮城県公文書館]](2階・3階)
*:[[伊達綱村]]生母[[三沢初子]]の[[菩提]]を弔うため建立した榴岡釈迦堂の跡地。旧[[宮城県図書館]]。
*[[政岡]]墓所
*:[[伊達騒動]]を扱った[[歌舞伎]]十八番「[[伽羅先代萩]]」の「政岡」のモデルとなった三沢初子の墓<ref>[http://www.city.sendai.jp/kensetsu/ryokka/midori100/guide/040/040.html 三沢初子の墓など](杜の都 緑の名所100選)</ref>。
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{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編2(古代中世) 仙台市、2000年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編3(近世1) 仙台市、2001年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編4(近世2) 仙台市、2003年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編5(近世3) 仙台市、2004年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編6(近代1) 仙台市、2008年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編7(近代2) 仙台市、2009年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編8(現代1) 仙台市、2011年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編9(現代2) 仙台市、2013年。
 
== 関連項目 ==
{{commonscat|Tsutsujigaoka Park (Sendai)}}
* [[西公園 (仙台市)]]
* [[国分町 (仙台市)]]
* [[楽都仙台]]
* [[公園]]
 
== 外部リンク ==