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[[西園寺家]]の庶流である[[山本家]]の[[侍従]]・[[山本公弘]]の二男として生まれ、[[醍醐寺]]無量寿院において出家得度し、[[戒名|法名]]を猶海とした。[[大僧都]][[法印]]に任ぜられたが、寺中の綱紀粛正をつよく唱えたために反感を買い、[[1839年]]還俗。山本毅軒と号し、さらに玉松操と改めた。
 
京都で国学者[[大国隆正]]に師事したが、やがて師と対立して[[和泉国|泉州]]に下り、さらに[[近江国]][[真野 (大津市)|真野]]に隠棲。[[三上兵部]]、[[樹下茂国]]らを[[弟子]]とした。[[1867年]]、三上の紹介によって[[岩倉具視]]に会い、その腹心となる。以後、[[小御所会議]]の席上示された王政復古の勅を起草し、[[江戸幕府]]との交戦に備え[[官軍]]の士気を鼓舞するための[[錦の御旗|錦旗]]の[[デザイン]]を考案するなど、岩倉の活動を学殖・文才によって助けた。
 
王政復古の後は、内国事務局権判事となり、[[平田銕胤]]らと結んで大学寮(漢学所)を国学を中心とする大学官に併合することを求めるなど、きわめて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。[[1869年]]には[[堂上家]]の一員となり、家禄三十303人扶持が給付される。[[東京奠都]]にあたっては猶予願を出し、[[1870年]]に[[東京]]で大学中博士兼侍読に任ぜられたものの、政府の欧化政策を嫌悪し、同年10月に辞職する。京都に帰って隠棲したが、まもなく病没した。[[1884年]]7月、養嗣子[[玉松真幸]]が[[男爵]]に叙された。
 
[[司馬遼太郎]]の短編小説『加茂の水』の主人公として描かれている。
 
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[[Category:国学者]]
[[Category:19世紀の学者]]
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