「京阪神」の版間の差分

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== 歴史 ==
{{See also|近畿地方#歴史|大阪市#歴史|奈良県#歴史|京都#歴史}}
[[大伴氏]]や[[物部氏]]が本拠を置いた場所であり、[[大阪平野]]や[[奈良盆地]]に[[天皇]](大君)がその在所を置くことが多く(→[[日本の首都]])、その場合には[[港|外港]]にあたる現在の[[大阪市]]の[[難波津]]・[[住吉津]]、大阪市から[[堺市]]に向かう[[難波大道]]、堺市から奈良に向かう[[長尾街道|大津道]]・[[竹内街道|丹比道]]などで結ばれていた。他方、[[外交]]が重視される時期や、奈良盆地の既存勢力と距離を置きたい場合には、[[日本海]]-[[若狭湾]]-[[琵琶湖]]-[[淀川]]-[[大阪湾]]-[[瀬戸内海]]の内陸水系物流ルート沿いの琵琶湖南岸以南に都が置かれた。[[難波宮]]・[[藤原宮]]・[[平城宮]]・[[平安宮]]などの大規模な首都整備、[[豪族]]・[[貴族]]の在地から首都への集住強制、納税や官人の往来のための[[官道]]整備(→[[日本の古代道路]])などにより、[[近畿地方]]は日本の富が集中する経済地域となっていった。その後、[[公家]]・[[武家]]・[[寺院|寺家]]に権力が分散し、税の畿内集中が弱まることもあったが、[[室町幕府]]や[[南朝 (日本)|南朝]]が置かれたり、[[日明貿易]]により[[神戸港|兵庫津]]や堺 (現在の[[堺市]]) が伸張して富を集めた。[[安土桃山時代]]に入ると[[織田信長]]や[[豊臣秀吉]]が当地に拠点を築いて経済改革を行い、また、[[手伝普請|城普請]]に伴って[[大坂城]]に[[城下町]]が形成され、そして特に秀吉が淀川の改修工事を命じた際に、[[文禄堤]]が建設されたことが大坂と京を結ぶ安定した交通路たる[[京街道 (大坂街道)|京街道]]に結実し<ref>[http://www.yodo-museum.go.jp/kikaku/sp01/s01c.html 文禄堤と京街道] - [[淀川資料館]]</ref>、これらの結果として経済発展が見られた。
 
[[江戸時代]]には、上述の内陸水系物流ルート上の[[京都|京]]・[[大坂]]('''[[上方]]''')に、海路では[[西廻海運]]・[[菱垣廻船]]・[[樽廻船]]が繋がり、陸路では[[五街道]]などが整備されて、[[近江商人]]が日本各地に分散して上方を日本の物資の集散地および金融の中心地へと変えた<!--([[江戸幕府]]は、上方を直轄地とし、さらに[[御三家]]の内、東廻り航路の[[友ヶ島水道]]に[[紀州徳川家]]、[[東海道]]・[[中山道]]合流地に[[尾張徳川家]]を置いた)-->。大坂には各[[藩]]の[[蔵屋敷]]が集まり、世界初の商品[[先物取引]]所たる[[堂島米会所]]が置かれ、遠隔地取引での[[為替手形]]も用いられるようになり、大坂は「天下の台所」として日本経済の中心地となった。京は[[富裕層]]向けを初めとした高[[付加価値]]商品生産地、すなわち[[工業都市]]として発展し、製品・[[職人]]が日本各地へと流れ、付随して京文化の影響を各地に与えた。