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教育者の渡邊潜龍・カツの一人娘として横浜市[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]に生まれる。横浜市立磯子国民学校(現・[[横浜市立磯子小学校]])、[[鶴見大学附属中学校・高等学校|鶴見女子中学校]] 、[[神奈川県立希望ヶ丘高等学校]]を経て[[東京都立駒場高等学校]]芸術科へ編入。[[ピアニスト]]を志望し、石渡日出夫よりピアノの指導を受けた。[[東京芸術大学]]音楽学部楽理科に進み、[[音楽学]]を[[服部幸三]]に師事し、西洋音楽史を専攻する。卒業論文は「リューベックの音楽史」。引き続き同大学大学院音楽専攻科を修了。修了論文は「Deitrich Buxtefudeのカンタータ」。
学生時代は伴奏ピアニストとしても活動。1959年に[[チェロ]]奏者の齋藤鶴吉と
併行して基礎研究を続け、[[神奈川新聞]]の前身である横浜貿易新報より、[[大正]]年間の音楽に関連する記述や広告などまでをすべて抽出した『横浜貿易新報大正年間記事収録』(神奈川新聞社出版局刊)を編纂。また、地域社会における音楽の関わりを模索し、各種団体の設立、企画公演などを手がける。1990年よりシンポジウム「21世紀の横浜の音楽文化を考える」を開催した。
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