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'''苻 洪'''(ふ こう、[[284年]] - [[350年]][[3月]])は、[[五胡十六国時代]]の武将[[前趙]][[後趙]]の人物であり、[[前秦]]の実質的な創建者。[[字]]'''広世'''といい、。元の名は'''蒲洪'''。[[略陽郡]]臨渭([[陝西省]][[漢中市]][[略陽県]])出身[[テイ (民族)|氐]]族の盟主酋長。[[前秦]]の初代皇帝となった[[苻健]]・丞相[[苻雄]]の父である。元来は'''蒲'''姓であったが、讖文に「草付応王」とあったことにより苻姓に改めた
 
== 略歴 ==
施しを好み、[[権謀術数]]に長けていたという。また、勇猛で武芸に優れ、特に騎射の腕に秀でていた。やがて氐族の酋長となると、氐人はみな敬畏の念を抱いて服従したという。
父の蒲懐帰は部落小帥にすぎなかったが、蒲洪は略陽氐族の長老たちに推されて、盟主となった。
 
[[310年]]、[[前趙]][[皇帝]][[劉聡]]は氐族を仲間に引き入れようと目論み、使者を派遣して蒲洪を平遠将軍に任じる旨を伝えたが、苻洪はこれを受けなかった。その後、護氐校尉・[[秦州]][[刺史]]・[[略陽郡|略陽]]公を自称した。
はじめ[[前趙]]の劉曜に服属、前趙が[[後趙]]に滅ぼされた後は後趙に服属した。蒲洪は石虎に関中住民の東方移住を説き、蒲洪は流民都督となって枋頭に本拠地を移した。[[349年]]4月に[[石虎]]が亡くなり後趙が将軍[[冉閔]]との内乱で乱れると、一時期[[東晋]]に服属したが、350年2月に大将軍・大単于・三秦王を称して自立し苻氏に改姓した。石虎の旧部下で当時は自らの家臣だった[[麻秋]]が西帰を説き、[[長安]]進出を図った<ref name="民族大移動89">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P89</ref>。
 
[[311年]]6月、[[永嘉の乱]]が起こると、蒲洪は千金を投じて英傑の士をかき集め、今後の身の処し方を協議した。[[宗族]]である[[蒲光]]・[[蒲突]]は、蒲洪を盟主に推戴した。
また、孫の[[苻生]]が生来から粗暴粗雑な行為が目立ち、[[隻眼]]であるのを忌み嫌っていた。苻洪は苻生をたびたび鞭打った挙句、子の苻健に誅殺を命じたが、末子の苻雄の制止で事なきを得た。
 
[[319年]]10月、前趙の[[丞相]][[劉曜]]が帝位に即くと、蒲洪はその要請に従い、前趙に帰順した。これにより、劉曜より率義侯に封じられた。
しかし同年3月に、苻洪から自立を図った軍師の麻秋によって[[毒|毒殺]]された<ref name="民族大移動89"/>。享年67<ref name="民族大移動89"/>。
 
[[328年]]12月、劉曜が[[洛陽市|洛陽]]において[[後趙]]王[[石勒]]に敗北して捕らえられると、蒲洪は隴西に移ってその勢力を保った。その後、後趙の中山公[[石虎]]が前趙領の[[上邽]]へ侵攻すると、蒲洪は石虎へ帰順を申し出た。石虎はこれに大いに喜び、六夷軍事・冠軍将軍に任じ、西方の事業を委ねた。
死後は苻健により'''恵武皇帝'''の[[諡号]]が贈られ、[[廟号]]を'''太祖'''とされた。
 
[[333年]]8月、石勒がこの世を去ると[[皇太子]][[石弘]]が後を継いだが、実権は石虎が握った。10月、河東王[[石生]]・洛陽を守備する[[石朗]]が石虎討伐の兵を挙げると、蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、[[雍州]]刺史を自称すると共に西進して[[前涼]]君主[[張駿]]に帰順した。石虎は将軍[[麻秋]]に苻洪の討伐を命じると、蒲洪は2万戸を伴って再び石虎へ降伏した。石虎はこれを許し、光烈将軍・護氐校尉に任じた。石生らは石虎に滅ぼされた。蒲洪は長安へ入ると、石虎へ「関中の豪傑と氐羌を京師に移して充実させるべきです。諸々の氐人は皆、我が家の部曲です。我が率いたならば一体誰がこれに背きましょうか!」と勧めた。石虎はこれに同意し、秦州・雍州の民と氐族・羌族の10万戸余りを関東へ移住させた。そして、蒲洪を龍驤将軍・流民都督<ref>晋書では流人都督と記される</ref>に任じ、枋頭に駐屯させた。
苻健は麻秋を殺害し、長安に進出して関中に勢力を築いて前秦を建国、孫の[[苻堅]]が華北統一を果たすことになる。
 
これ以降、石虎の下で幾度も戦功を上げ、大いに重用されるようになったという。
 
[[338年]]5月、使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍に任じられ、[[西平郡]]公に封じられた。さらに、彼の部下2千人余りも[[関内侯]]の爵位を賜り、蒲洪は関内領侯将となった。石虎の養孫である脩成侯[[冉閔|石閔]]は石虎へ「苻洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしており、その諸子も非凡な才覚を有しております。その上、強兵5万を擁して都城近郊に駐屯しております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」と進言したが、石虎は「我はまさに彼ら父子を頼みとして東呉([[東晋]])と巴蜀([[成漢]])を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」と言い、逆にますます厚遇するようになった。
 
[[346年]]5月、後趙の中黄門[[厳生]]は[[尚書]][[朱軌]]に恨みを抱いており、当時長雨が続いて道路整備が滞っていた事もあり、厳生は朱軌が道路の補修を怠り、さらに朝政を誹謗していると讒言した。その為、石虎は朱軌を捕らえたが、蒲洪は「陛下は既に襄国・鄴の宮殿を有しており、その上で長安・洛陽の宮殿を修復しておられます。一体これを何に用いるというのでしょう。また、猟車を千乗も造り、数千里も囲って禽獣を養われ、人妻10万人余りを奪って後宮に入れておられます。聖帝明王がこのような事を為しましょうか?今また、道路が修繕されていないという理由で尚書を殺そうとしておられますが、これは陛下が徳のある政治を修められない事から、天が7旬にも及んで淫雨を降らせたのが原因ではないでしょうか。しかも。晴れてからまだ2日であり、これでは100万の鬼兵を用いたといえども、道路の破損を除く事など出来ません。ましてや、これは人がやる事です!政刑がこのようでは、四海はどうなりましょうか!後の代はどうなりましょうか!願わくばこの作役を中止し、苑囿(動物の囲い場)を廃止し、宮女を返し、朱軌を赦免し、衆人の望みに応えて下さいますよう」と、強く諫言した。石虎はこれを快く思わなかったが、蒲洪を処罰する事は無かった。また、長安と洛陽の労役については中止としたが、朱軌は処刑された。これ以降、石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人を告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思を疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった。
 
やがて[[車騎将軍]]に昇進した。
 
[[349年]]1月、高力督[[梁犢]]が謀反を起こし、その数は10万にも及んだ。反乱軍は長安・洛陽を突破し、滎陽・陳留へ侵犯し、後趙軍はこれに幾度も敗北した。 蒲洪は征虜将軍石閔・燕王[[石斌]]・統冠将軍[[姚弋仲]]と共に[[ケイ陽市|滎陽]]において梁犢を大破し、梁犢の首級を挙げた。さらに、その残党勢力も掃討した。功績により、蒲洪は車騎大将軍、開府儀同三司・都督雍秦州諸軍事・雍州刺史に任じられ、略陽郡公へ進封された。
 
[[4月]]、石虎が逝去し、[[石世]]が後を継いだが、まだ幼かった事から母の[[劉皇后 (石虎)|劉皇太后]]と[[太保]][[張豺]]が政権を握った。この時、蒲洪は姚弋仲・石閔・[[劉寧]]・[[王鸞]]らと共に梁犢討伐から帰還の途上であったが、李城において彭城王[[石遵]]と面会した。彼らは共に「殿下(石遵)は年長であり、聡明であります。先帝(石虎)も本来は殿下を世継ぎとなるお考えでした。ですが、老耄であった事から張豺の口車に乗せられたのです。今、女主(石世の母である劉皇太后)が朝廷に臨み、姦臣(張豺)が政治を乱しております。上白(上白城に拠って石世と対立していた李農の事)が持ちこたえておりますので、宿衛(皇帝を護衛する兵が宿直する場所)に兵卒はおりません。殿下がもしも張豺の罪を数え上げ、軍鼓を鳴らして進撃すれば、全ての者が馳せ参じて殿下を迎え入れるでしょう。」と進言した。これにより石遵は挙兵を決断した。5月、石遵は鄴を攻略すると、石世を廃して自ら即位した。
 
同月、石閔は石遵へ「蒲洪は人傑です。今、蒲洪に関中を任せておりますが、臣は秦・雍の地が国家の有するもので無くなるのを恐れております。先帝臨終の命(蒲洪を関中へ置くのは石虎の遺命)といえども、既に陛下がこれを継いでいるのですから、自ら改めても差し支えないかと」と勧めた。石遵はこれに従い、蒲洪の都督職を免じた。蒲洪はこの処遇に怒り、枋頭へ帰って東晋へ帰順してしまった。
 
11月、石閔は石遵を殺害し、代わって[[石鑑]]を皇帝に擁立し、実質的に政権を掌握した。これ以降、各地で兵が起こり、秦州・雍州からの流民は西へ帰還しようと謀った。彼らはその途上で枋頭に入ったが、この時共同で蒲洪を首領に推戴した。これにより蒲洪の擁する兵は10万を超えた。
 
12月、[[襄国]]を鎮守していた後趙の新興王[[石祗]]は石閔とその側近である[[李農]]の誅殺を掲げて決起すると、蒲洪もまた姚弋仲らと共にこれに応じた。
 
蒲洪の子である[[苻健|蒲健]]は鄴城に留まっていたが、関所を破って枋頭へ逃亡した。石鑑は蒲洪がすぐ近くで勢力を保っているのを恐れ、再び彼を懐柔しようと謀り、都督関中諸軍事・征西大将軍・雍州牧・領秦州刺史に任じた。蒲洪は配下の官吏を召集すると、この任を受けるべきか否かを協議した。主簿[[程僕]]はひとまず後趙に帰順し、諸侯のように土地を分け与えて貰い、これを治めるよう勧めた。蒲洪はこれに激怒して「我には天子に配する事は出来ないというのか?どうして汝は諸侯となって土地を分け与えて貰うなどと言う話をするのか!」と詰問し、程僕を引っ立てて殺害した。
 
[[350年]]1月、東晋[[穆帝 (東晋)|穆帝]]より氐王・使持節・征北大将軍・都督河北諸軍事・冀州刺史に任じられ、広川郡公に封じられた。さらに、子の蒲健は仮節・右将軍・監河北征討前鋒諸軍事に任じられ、襄国公に封じられた。
 
同月、蒲洪は密かに[[関西 (曖昧さ回避)|関西]]に割拠しようと目論んでおり、姚弋仲もまた同じ考えを抱いていた。姚弋仲は子の[[姚襄]]に5万の兵を与えて蒲洪を攻撃させたが、蒲洪はこれを迎撃して大勝を挙げ、3万以上の兵を討ち取った。
 
この時、蒲洪に帝位に即くよう勧める者がいた。まら、讖緯には「艸付應王」とあり、孫の[[蒲堅]]の背には「艸付」の字があった。この事から、苻洪と名を改め、[[大将軍]]・[[単于|大単于]]・三秦王を自称した。さらに、[[南安郡|南安]]出身の[[雷弱兒]]を輔国将軍に任じ、[[安定郡|安定]]出身の[[梁楞]]を[[前将軍]]・左長史に任じ、[[馮翊郡|馮翊]]出身の[[魚遵]]を後将軍・右長史に任じ、[[京兆郡|京兆]]出身の[[段陵]]を左将軍・左司馬に任じ、[[王堕]]を右将軍・右司馬に任じ、[[天水郡|天水]]出身の[[趙俱]]・隴西出身の[[牛夷]]・[[北地郡|北地]]出身の[[辛牢]]を従事中郎に任じ、氐族酋長の[[毛貴則]]を单于輔相に任じられた。苻洪は博士[[胡文]]へ「我が兵10万を率い、堅牢な地を抑えれば、冉閔・慕容儁など望めばいつでも滅ぼせよう。姚襄父子に打ち勝つのも我が術中の内である。我が天下を取るのは、[[前漢|漢]][[劉邦|高祖]]より容易いだろう。」と語った。
 
同月、後趙の征東将軍[[麻秋]]は鄴へ向かっていたが、苻洪は子の龍驤将軍[[苻雄]]にこれを撃たせ、麻秋を捕らえた。苻洪は麻秋を登用し、軍師将軍に任じた。
 
3月、麻秋は苻洪へ「冉閔と石祗の対立により、中原の動乱はまだ終わらないでしょう。この機に乗じて関中を平定し、覇業の基礎を築くのです。その後に東進して天下を争えば、誰も敵わないでしょう」と薦めると、苻洪はこれに同意した。だが、麻秋は密かに苻洪の軍を奪う事を目論んでいた。ある時、宴会の席で苻洪の酒へ毒を盛って殺害し、彼の配下の兵を奪おうとした。目論み通り苻洪は毒を飲んでしまい倒れたが、苻健により麻秋は捕らえられて処刑された。
 
苻洪は死に臨んで苻健へ「我が以前入関しなかったのは、先に中原を安定させるべきであると考えたからだ。我は今、秋の如き豎子により不幸に遭ったしまったが、中原の平定は汝ら兄弟ではどうにもならんだろう。関中は天形勝であるから、我が死後はすぐに西へ向かうのだ」と遺言し、間もなく亡くなった。享年66であった。
 
[[351年]]1月、苻健が天王に即位すると、'''恵武皇帝'''<ref>資治通鑑では武恵皇帝と記される</ref>と追諡され、[[廟号]]を'''太祖'''とされた。
 
=== 注釈逸話 ===
 
=== 祖先について ===
[[有扈氏]]([[夏 (三代)|夏]]初期の有力な豪族。夏王朝を興した[[夏后氏]]と同じ姒姓である)の末裔であると言われており、彼の祖先は代々[[西戎]]の[[酋長]]であった。
 
また、元々の姓は蒲でも苻でも無かった。その家の中にある池には、長さ五丈で竹のような形をした五つの節がある蒲草が生えており、人々よりその家は蒲家と呼ばれていた。その為、いつしかこれを姓にしたのだという。
 
=== 引用元出生 ===
蒲洪の父は[[蒲懐歸]]と言い、部落の小帥(部族の中のさらに小さな集団を束ねる者)であった。蒲洪の生まれる前、[[隴西郡|隴西]]で大雨が降って百姓は苦しみ、この時「もし雨が止まないならば、洪水は必ずや起きる事だろう」という謠言が流行った。これに因み、蒲懐歸は自らの子を洪と命名したという。
 
=== 孫の苻生 ===
苻健の子である[[苻生]]は幼い頃から無法な行いを繰り返しており、苻洪は彼を強く忌み嫌っていた。苻生は生まれた頃から隻眼であり、幼少の頃苻洪はふざけて侍者へ「片目の子は片方からしか涙を流さないと聞いているが、真かね?」と問うと、侍者はこれに同意した。苻生はこれに怒り、佩刀を用いて自らを刺して流血させ「これもまさか涙と言うのですかな」と言い放った。苻洪はこれに大いに驚き、苻生を鞭打った。苻生は「生来、刀刺を恐れた事などありませんが、どうして鞭打ちをも我慢できましょうか」と言うと、苻洪は「汝が行動を改めなかったならば、我は汝を奴隷に落とそう」と言った。だが、苻生は「まさか石勒には及びますまい」と反論したので、苻洪は驚いて素足のままで苻生の口を塞ぎ、父である苻健へ「この子は非常に残暴であり、すぐに除くべきだ。さもなくば、必ずや家人を損なう事になる」と言った。これにより、苻健は苻生を殺そうと考えたが、苻雄が「子供は成長すると自然に改めるものです。どうしてこのような事をする必要があるのです!」と諫めたので、苻健は思い止まったという。
 
== 宗室 ==
 
=== 父 ===
 
* 蒲懐歸
 
=== 弟 ===
 
* [[苻安]] - 武都王
* [[苻侯]] - 永安威公
 
=== 子 ===
 
* 苻健 - 前秦の景明帝
* 苻雄 - 東海敬武王
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 引用元 ===
<references />
 
== 参考文献 ==
 
* [[三崎良章]]『五胡十六国 中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
* 『[[晋書]]』 巻107 巻112 巻116
* 『[[資治通鑑]]』巻87 - 巻99
* 『[[十六国春秋]]』巻33
 
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