「谷繁元信」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
59行目:
{{by|2001年}}は初めてシーズン20本塁打を打ち、オフに[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]への移籍を目指しFA宣言を行う<ref>TRY FOR MAJOR『月刊スラッガー』2002年1月号、日本スポーツ企画出版社、39頁。雑誌15509-1。</ref>。[[トニー・アタナシオ]]と代理人契約を結び、「年俸が下がってでもメジャーに行きたい気持ちがある」と強い決意で渡米。12月5日には[[シアトル・マリナーズ]]と[[サンディエゴ・パドレス]]、[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|アナハイム・エンゼルス]]の関係者らの前でワークアウトを行ったが、良い条件が得られなかったためメジャー挑戦を断念、横浜残留も囁かれたが、この年から横浜の監督として指揮を取っていた[[森祇晶]]との確執があったこともあり<ref>{{Cite news |title = “中日・谷繁vs西武・伊原”新監督同士をめぐる意外な「因縁」とは… |newspaper = [[夕刊フジ|ZAKZAK]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |date = 2014-02-23 |author = 江尻良文 |url = http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140223/bbl1402230759004-n1.htm |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、[[中日ドラゴンズ]]へ移籍。背番号は'''7'''。横浜は中日からのFA補償として金銭を選択したが、当時中日の正捕手であった[[中村武志]]が出場機会を求めトレード志願し、横浜へ金銭トレードで移籍。結果的に正捕手同士の“交換トレード”という形になった。
 
=== 中日(選手専任)時代 ===
移籍1年目の{{by|2002年}}は規定打席到達者最下位の打率.215と低迷したが、チャンスでは勝負強さを発揮し、ともに自己最多となる24本塁打、78打点を記録する。
 
85行目:
{{by|2013年}}は開幕から打撃が好調で、[[5月6日]]のヤクルト戦で右前安打を打ち、通算2803試合目で史上44人目の通算2000安打を達成した。プロ25年目、9693打席目での達成は史上最遅であり、42歳での到達も[[宮本慎也]]の41歳5ヶ月を抜いて最年長記録となった。また2000安打達成者のうち2014年終了時点で、生涯打率が.250に達しない唯一の選手である。捕手としては野村克也、[[古田敦也]]に次いで3人目の達成となった。[[5月12日]]の広島戦で中日での通算1000安打を達成。「2球団で1000安打達成<ref>横浜時代は通算1002安打。</ref>」は[[大杉勝男]]、[[金本知憲]]に次いで史上3人目である。しかしその後は打撃不振に陥り、守備でも盗塁阻止率が自己最低の.174を記録するなど、不本意なシーズンに終わった。[[6月30日]]には通算出場試合数が2832試合となり、[[王貞治]]を抜いて歴代2位となった。
 
==== 中日(兼任監督時代 ====
2013年10月9日、GMとして復帰した落合博満の推薦により、{{by|2014年}}シーズンより選手兼任監督としてチームの指揮を執ることが球団より発表された<ref name="dragons20131010"/><ref name="Tanishige"/>。NPBでは古田敦也([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])以来7年ぶり、チームとしては[[野口明]]以来59年ぶりとなる選手兼任監督となった。
 
102行目:
12月2日付で、[[日本野球機構]](NPB)から[[自由契約|自由契約選手]]として公示された<ref>[http://www.npb.or.jp/players/2015pn_released.html 2015年度 自由契約選手] - 2015年12月2日閲覧</ref>。
 
==== 中日(専任監督時代 ====
[[2016年]]から専任監督となり、落合監督時代から自らを含め投打とも多くの実績あるベテランが主力として支え続けたチームを、世代交代と成績向上を目指し多くのベテラン選手を前年までに引退させて臨む。しかし、若手の力不足は顕著でチームの成績不振は改善されず最下位に低迷した。特に勝利数・奪三振・防御率の10傑に誰もいない先発陣は壊滅的だった。一軍守備コーチの[[佐伯貴弘]]と共に8月9日付で休養(事実上の解任)となり、当日の対東京ヤクルトスワローズ戦から[[森繁和]]ヘッドコーチが[[監督代行]]となった。公式戦全試合終了後、森は正式に翌年の監督に就任した。