「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」の版間の差分

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[[1989年]][[10月6日]]、[[露橋スポーツセンター]]で旗揚げ戦を開催。7月2日、「[[格闘技の祭典]]」で遺恨が勃発した大仁田と空手家の[[青柳政司]]との抗争を軸に元[[全日本プロレス]]所属選手の[[ターザン後藤]]や元[[新日本プロレス]]の[[栗栖正伸]]も参加。初期におけるFMWは、その団体名が示す通り柔道、キックボクシング、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており[[異種格闘技戦]]的な要素が強かった。しかし、その意味付けは当時隆盛だった[[UWF]]への対抗心(あるいは皮肉)によるところが大きく「総合格闘技オープン・トーナメント」と銘打たれた大会で栗栖がイス攻撃を駆使して優勝したりボクシングの元世界チャンピオン、柔道メダリスト、空手家、プロレスラーなどの「タッグチーム」が競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催。
 
FMWの看板と位置付けて行ったのが[[デスマッチ]]と[[ストリートファイト]]マッチなどである。資金難を始め様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「'''何でもあり'''」をキーワードにしてのアイデアで勝負する道だった。[[デスマッチ#有刺鉄線デスマッチ|有刺鉄線デスマッチ]]を皮切りに数々の「[[日本]]初」を敢行。[[1990年]][[8月4日]]、[[レール・シティ汐留]]大会で開催した大仁田と後藤の「究極のデスマッチ」、[[デスマッチ#電流爆破デスマッチ|ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ]]で団体の浮沈をも賭けた。その思惑は当たりFMWは一躍注目を浴びるようになった。1992年には[[兵庫県]][[三田市]]でファイヤーデスマッチを日本で初めて開催し、大きな話題となる。
 
多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどが行われて大仁田が「'''おもちゃ箱をひっくり返したような'''」と表現した団体色は一大センセーションを呼びUWFを除けば当時のメジャー団体だった新日本と全日本に匹敵する第3勢力になった。
 
大仁田はFMWの宣伝目的もありテレビ等に極力出演してタレント並みの知名度を得た。このことによりFMWの知名度も全国区になりニュース番組や[[TBSテレビ|TBS]]の番組「[[ギミア・ぶれいく]]」などでドキュメンタリーが放送された。後にライバルの[[ミスター・ポーゴ]]の退団などもあったものの[[ザ・シーク]]、[[タイガー・ジェット・シン]]といった新たな[[ヒール (プロレス)|ヒール]]選手も獲得して[[1991年]]には[[川崎球場]]で興行を開催。因みに、その同じ日に10kmくらいの距離の先の横浜市では新日本プロレス[[横浜アリーナ]]大会が開催されて1万8千人もの観客を動員したこともあり「時期尚早では?」と言われていた、しかし蓋を開けてみれば約3万3千人の動員に成功。[[1992年]]には[[横浜スタジアム]]、[[1993年]]には2度目の川崎球場と[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]で興行を開催して経営規模は順調に拡大していった。その一方で全国各地の駐車場や空き地での小さな興行も欠かさず行い、津々浦々にファンを増やしていった。
 
デスマッチ中心のプロレス団体として1991年に分裂した社長の[[茨城清志]](元渉外担当)、ポーゴらが率いる[[W★INGプロモーション]]とは激しい興行戦争となったが資金面に劣るW★INGから看板選手であったポーゴらを引き抜きW★INGを壊滅させてインディー団体の最高峰に立つまでに成長。
 
[[1994年]][[5月5日]]、[[FMW川崎球場大会|川崎球場大会]]で自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも[[天龍源一郎]]に敗れた大仁田は引退を決意。1年間の引退シリーズを経て[[1995年]]5月5日、川崎球場大会で引退試合を行う。最後の対戦相手は当初は後藤が予定されていたが突如、[[ミスター雁之助]]、[[フライングキッド市原|市原昭仁]](現:フライングキッド市原)らと共に退団。対戦相手の再考を余儀なくされた大仁田は名乗りを上げていた[[新東京プロレス|東京プロレス]]の[[石川孝志|石川敬士]](現:石川孝志)を指名。さらに試合の調印直前で名乗りを上げた弟子であり次代のエースの[[ハヤブサ (プロレスラー)|ハヤブサ]]に石川の了解を得て変更して引退試合を行った。
 
=== 新生FMW ===
大仁田は引退後、社長を退任しFMWと無関係になった。新たに運営会社が設立され、社長には旗揚げ当時リングアナウンサーで、関連子会社「FMWクリエイティブ」の取締役広報部長だった[[荒井昌一]]が就任した。この時営業の高橋英樹部長と荒井昌一のどちらかを新社長にしようとし高橋はすぐに断り荒井が手を挙げた。新会社の株の割合は、大仁田が53%、荒井が47%だった<ref>[http://www.hochi.co.jp/fight/20171019-OHT1T50108.html 大仁田厚ヒストリー<22>]スポーツ報知2017年10月22日(2018年4月30日アクセス)</ref>。「大仁田がいなければFMWは3ヶ月で潰れる」というような声をよそに大仁田の引退後もFMWは持ちこたえた。1995年5月28日、駒沢オリンピック公園体育館大会を皮切りにハヤブサを中心に[[金村キンタロー|金村ゆきひろ]](現:金村キンタロー)、[[田中将斗|田中正人]](現:田中将斗)、[[工藤めぐみ]]、[[マイク・アルフォンソ|ザ・グラジエーター]]らの若い力がリングに活力を蘇らせて大仁田体制の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。ハヤブサが腕を負傷して半年間の欠場の間も金村と田中のライバルストーリーがファンの支持を得てリング上のパワーは落ちなかった。[[1996年]]5月5日、ハヤブサ&田中組対[[テリー・ファンク]]&ポーゴ組をメインイベントに川崎球場大会のビッグマッチを成功。
 
しかし、もう1度スポットライトを浴びたいと願う大仁田は復帰を画策。ポーゴを引退させてポーゴの最後の願いとして大仁田とのタッグ結成をファンに乞うという[[アングル (プロレス)|アングル]]で[[1996年]][[12月11日]]、[[駒沢オリンピック公園体育館]]大会で強引に復帰。この頃からハヤブサ、金村、田中ら若い世代へ期待する路線と創始者の大仁田への回帰路線という2つの方向性がリング上に生まれてFMWは混乱し始めた。大仁田が突然、[[ZEN (プロレス)|ZEN]]<ref>[[大仁田厚]]が[[金村キンタロー|金村ゆきひろ]](現:金村キンタロー)と対戦して勝利して金村が率いていたW★ING同盟を解散させる形で吸収して、さらに正規軍から[[黒田哲広]]、[[ZEN (プロレス)|ZEN]]旗揚げにより[[冬木弘道]]がカムバックしたことに反発した[[ミスター雁之助]]らが加入。なお大仁田は当初、新団体と位置付けて他団体参戦も辞さないという旨を示していた。しかし大仁田が「FMWが好きだからこそ(敵となってFMWと)闘った」と発言したのを機にFMW壊滅を目標としていた金村らが反発。金村を始めとする数名がZENを離反するに到った。因みに、金村と[[BADBOY非道]]が暫定的なユニット「[[チーム悪]]」を経て後に結成したユニット「[[チーム・ノーリスペクト]]」(後述)の名称にはカリスマ(大仁田)に忠誠を誓うといったFMWの長年の傾向に対して「もう誰も尊敬しない」といった反発と皮肉を込めたとされている。また後年に金村らが流行らせたブリブラダンスはZEN勢が試合終了後のパフォーマンスとして行ったZENダンスと呼ばれた踊りが基でありブリブラダンス及びチーム・ノーリスペクトのテーマ曲として定着した[[オフスプリング|COME OUT AND PLAY]]も元々はZEN勢の入場テーマ曲であった。</ref>という団体内団体を旗揚げしたのも2つの方向性を両立させようとする当時のFMWフロントの苦心の結果である。また経営陣と大仁田の間には大仁田の給料を巡って金銭トラブルが多発していたとされる。
 
この頃、[[WAR (プロレス)|WAR]]を退団した[[冬木弘道]]、[[邪道 (プロレスラー)|邪道]]、[[外道 (プロレスラー)|外道]]が参戦して金村、雁之助らとユニット「[[チーム・ノーリスペクト]]」を結成してFMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍になった。
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=== ディレクTVとの契約 - エンターテイメント路線 ===
[[日本]]に進出を図った[[ディレクTV]]がキラーコンテンツの1つとしてFMWを選んだ<ref>[[ディレクTV]]は同様に旗揚げしたばかりであった[[アルシオン]]とも契約。</ref>。[[1998年]]3月、「3年3億円」で契約してテレビ放映を手にしたFMWは'''最大のインディー団体'''と言われるようになる。契約を結んだFMWは制作費の提供を受けてグレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。その第1弾になった横浜アリーナ大会ではハヤブサ対雁之助、大仁田対冬木、金村対[[新崎人生]]、田中対[[バンバン・ビガロ|クラッシャー・バンバン・ビガロ]]などが行われて、いずれも好勝負になった。その後、社長の[[荒井昌一]]と所属選手が一丸になって大仁田に対して撤退を要求して[[1998年]][[11月20日]]、[[横浜文化体育館]]大会を最後に大仁田はFMWを離れた。
 
[[1999年]]5月、アクの強いエンターテイメント路線にシフトチェンジを行ってドッグフードマッチや、おばけ屋敷マッチなど、これまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開。さらに[[AV男優]]の[[チョコボール向井]]やAV女優の[[若菜瀬奈]]、演歌歌手の[[谷本知美]]などのプロレス経験がない素人までを試合に参加させてファンの話題と反発を呼んだ。[[10月29日]]、[[後楽園ホール]]大会の最後に[[ハヤブサ (プロレスラー)|H]]と[[ミスター雁之助|偽ハヤブサ]]が乱闘を起こして一般人はおろか[[杉作J太郎]]までも巻き込まれて警備員に制止される羽目になった(更にHがディレクTVの業務用ビデオカメラ(1,000万円相当)を叩き壊したりもしている)。