「正田耕三」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
20行目:
|最終出場 = 1998年9月29日
|経歴 =
* [[和歌山市立和歌山高等学校|和歌山市立和歌山商業高等学校]]
* [[新日鐵住金広畑硬式野球部|新日本製鐵広畑]]
* [[広島東洋カープ]] (1985 - 1998)
42行目:
{{MedalTop}}
{{MedalSport|男子 [[野球]]}}
{{MedalGold|[[1984年ロサンゼルスオリンピック (1984年)|1984]]|野球}}
{{MedalBottom}}
'''正田 耕三'''(しょうだ こうぞう、[[1962年]][[1月2日]] - )は、[[和歌山県]][[和歌山市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、野球指導者、[[野球解説者]]。
48行目:
== 経歴 ==
=== アマチュア時代 ===
[[和歌山市駅]]近くにある蕎麦屋<ref name="Number_19980813_113">『[[Sports Graphic Number|Number]]』1998年8月13日号、P.113</ref>の長男として生まれた。小学3年生で[[野球]]を始め、和歌山市立城東中学校では[[少年野球|学童野球]]で全国優勝を経験した。なお旧名は「耕造」だったが、中学生時代に自宅の階段から落ちて足を骨折したのを機に改名した<ref>『月刊THE CARP』{{full|date=2015-03}}</ref>。[[和歌山市立和歌山高等学校|市立和歌山商業高校]]では卓抜した守備能力で1年の夏から[[二塁手]]のレギュラーとなった<ref>『[[毎日新聞]]』2005年3月6日付朝刊、和歌山地方面</ref>が、3年夏の[[全国高等学校野球選手権和歌山大会|和歌山大会]]は1回戦で同学年の[[木村竹志|石井毅]]と[[嶋田宗彦]]のバッテリーを擁する[[和歌山県立箕島高等学校|箕島高校]]の存在もありに敗れた<ref name="Number_19980813_113" />、甲子園出場はならなかった
 
高校卒業後は[[社会人野球]]の[[新日鐵住金広畑硬式野球部|新日鉄広畑]]へ進む。{{by|1983年}}の[[第54回都市対抗野球大会|都市対抗]]では準々決勝で本塁打を放つなど活躍するが、準決勝で[[東芝硬式野球部|東芝]]のエース[[川端順]]に抑えられ敗退<ref>「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年</ref>。{{by|1984年}}には[[1984年ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]の[[1984年ロサンゼルスオリンピック野球競技・日本代表|日本代表]]として二塁を守り、主に一番打者を務めて15[[打数]]6[[安打]]の成績で金メダル獲得に貢献した。監督の[[松永怜一]]からはプレーとともにリーダーシップを賞賛された<ref name="base_19981019_36">『週刊ベースボール』1998年10月19日、P.36</ref>。オリンピック後、[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で[[広島東洋カープ]]から2位で指名された。正田自身は少年時代から熱狂的な[[阪神タイガース]]ファンであり、かつ広島側から事前に打診がなかったことから入団が危ぶまれたが、「自分は阪神ファンだが、プロであるからこれからは広島に野球をしにいく」と語り広島に入団した<ref>後藤正治『スカウト』</ref>。アマチュア野球の最高峰でプレーしたことでさらに一段階上のレベルに挑戦したくなり、もし芽が出なければ3年で辞めて家業の蕎麦屋を継ぐつもりだった<ref name="base_19981221_12">『[[週刊ベースボール]]』1998年12月21日、P.12</ref>。
 
=== プロ野球選手時代 ===
プロ1年目の{{by|1985年}}途中でスピードについて行けなくなり、監督の[[古葉竹識]]の勧めで秋から[[スイッチヒッター]]転向に挑戦した<ref name="base_19981221_12" />。睡眠と食事以外の時間はバットを常に握っていたほどの猛練習を積み<ref name="base_19981221_12" />、打撃コーチの[[内田順三]]も年間350日は朝から晩まで顔を合わせて指導した<ref name="base_19990719_18">『週刊ベースボール』1999年7月19日、P.18</ref>。翌{{by|1986年}}は[[規定打席]]には達しなかったものの90試合に出場し、打率も.288に上昇した。チームはリーグ優勝を果たし、正田は初めて野球をやってきて良かったと感じた<ref name="base_19981221_14">『週刊ベースボール』1998年12月21日、P.14</ref>が、レギュラー定着を目指してオフの[[ハワイ]]への優勝旅行にもバット2本を持参して練習を重ねた<ref name="base_19990719_19">『週刊ベースボール』1999年7月19日、P.19</ref>。実家の蕎麦屋では「正田が[[本塁打]]を打つと蕎麦を半額にします」との張り紙がプロ入り後の2年間出されていたが、実施されたのはわずか1度だけであった<ref name="Number_19980813_113" />。
 
{{by|1987年}}は二塁手のレギュラーに定着し、[[1987年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも初めて出場した。最終戦で[[セーフティーバント|バントヒット]]を決めて[[篠塚和典|篠塚利夫]]と同率で並んで初タイトルとなる[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得し、[[ゴールデングラブ賞]]にも選ばれた。この首位打者には様々な記録がつき、同率で2名が並んだのは{{by|1969年}}の[[張本勲]]・[[永淵洋三]]以来となる史上2度目、本塁打0での獲得は[[太平洋戦争]]2リーグ制後初(戦前も(1リーグ時代含めると1936年秋の[[中根之]]、1944年の[[岡村俊昭]]に続く3人目、43年ぶり)、さらにスイッチヒッターとしては[[日本野球機構|NPB]]史上初であった。
 
{{by|1988年}}は春先に外傷性肩峰下滑液包炎を発症し、さらにこれがきっかけで同僚の[[高橋慶彦]]との間にトラブルが起きた([[#高橋慶彦との関係|後述]])。この肩痛のため5月12日から2週間にわたり一軍登録を抹消されたが、筋力トレーニングによるリハビリによって復帰<ref name="base_19880801_39">『週刊ベースボール』1988年8月1日、P.36</ref>。ともに2年連続となる[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場と首位打者獲得を果たした。なお、シーズン終盤には首位打者を確定させるため監督の[[阿南準郎]]が[[スターティングメンバー|スタメン]]から正田を外したが、正田本人は「タイトルが取れなくても試合に出たい」と直訴した<ref name="base_19891016_125">『週刊ベースボール』1989年10月16日、P.125</ref>。
89行目:
== 人物 ==
=== 練習量 ===
高橋とともにチームの中でも屈指の猛練習を積み、{{by|1987年}}の[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]では高橋が2万本の[[素振り]]を行えば正田は4万本をこなした<ref name="base_19880613_85" />。また、シーズン中も広島でのナイトゲーム終了後には[[西区 (広島市)|西区]]三篠町の合宿所練習場、または[[大野町 (広島県)|大野町]]の屋内練習所のいずれかで[[ピッチングマシン]]相手の打撃練習を毎日深夜に行なっていた。{{by|1988年}}の[[湯布院]]での自主トレ終了後には、200折の[[温泉饅頭]]を持ってそれぞれの練習場の近所の家を回って騒音を詫びた<ref name="ochi">[[越智正典]]『二番打者物語』ダイヤモンド社、1995年、P.20</ref>。[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1988年のオールスターゲーム]]出場が決まった際にはその間の練習時間が減ることを心配するほど<ref name="base_19880801_39" />で、一時はコーチから練習を止められることもあった<ref name="base_19981221_12" />。
 
首位打者を獲得してからも左打ちを磨くためビジターでも午前中に打ち込んでから球場入りし、ホームではさらに球場での早出特打を行っていた<ref name="base_19891016_125" />。素質を補うために練習を重ね、現役晩年の{{by|1996年}}でも球界屈指の練習量だった[[金本知憲]]や緒方に負けない数のスイングをこなした<ref name="base_19961223_56">『週刊ベースボール』1996年12月23日、P.56</ref>。
116行目:
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1989}}
|128||'''578'''||498||74||161||19||'''7'''||1||197||25||'''34'''||'''18'''||23||3||50||1||4||58||11||.323||.387||.396||.783
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1990}}
151行目:
 
=== タイトル ===
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:2回 (1987年、1988年)
* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:1回 (1989年)
 
=== 表彰 ===
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:2回 (二塁手部門:1988年、1989年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:5回 (二塁手部門:1987年 - 1991年)
* [[月間MVP_(日本プロ野球)|月間MVP]]:1回 (野手部門:1993年4月)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:1回 ([[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1988年]] 第3戦)
 
=== 記録 ===
166行目:
* 初本塁打:1986年5月22日、対[[中日ドラゴンズ]]7回戦([[石川県立野球場]])、1回に[[杉本正 (野球)|杉本正]]から左越満塁
; 節目の記録
* 1000安打:1994年4月10日、対読売ジャイアンツ戦([[東京ドーム]])
* 1000試合出場:1994年5月22日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦([[福井県営球場]]) ※史上318人目
* 250犠打:1997年5月30日、対横浜ベイスターズ戦(広島市民球場)
* 1500試合出場:1998年6月17日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場]])
* 1500安打:1998年7月10日、対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)
; その他の記録
* 1試合6盗塁:1989年10月15日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場) ※NPBタイ記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:5回 (1987年 - 1990年、1993年)
 
=== 背番号 ===
* '''4''' (1985年 - 1998年)
* '''78''' (1999年 - 2004年)
* '''87''' (2005年 - 2007年、2010年 - 2011年、2017年 - )
* '''88''' (2009年)
* '''81''' (2015年 - 2016年)
 
== 関連情報 ==
189行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|32}}
 
== 関連項目 ==
197行目:
 
== 外部リンク ==
{{NPB|91793860|正田耕三}}
{{BASEBALLstats |brjpn=shoda-000koz}}