「長州征討」の版間の差分

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朝議は紛糾し、三回目(8月4日)の朝議に召しだされた慶喜は「一当て仕らずては長人等追々京畿にも迫るべき有様なり、さはいへ強いて山口まで攻入るべしとのことにはあらず、芸石二州の地に進入せる長人を自国へ逐退けたる後、朝廷へ寛大の御処置を願ひ、又諸大名をも会同(集まって相談)して国事を議する事に仕るべきなり」と発言した。これをうけて[[孝明天皇]]が「朕は解兵すべからずとの決心なれば、速に進発して功を奏すべし」と叡慮をのべて議は決した。戦争継続である。8月8日、家茂の名代として出陣する慶喜は御暇乞の参内をして天盃、節刀を賜ったが、14日、慶喜は二条斉敬へ出陣を見合わせるようにとの4日と反対の内願を提出、16日に勅許が下ろされた。これは11日に九州戦線崩壊(小倉城の自焼、諸藩の戦線離脱)が京都に伝わったことによる。長州征討は止戦するという勅命が20日に出され、同時に諸大名を召集し「天下公論」で国事を決すると決まった。
 
この8月、幕府は費用を確保するため、[[イギリス]]の[[オリエンタル・バンク]]と600万[[ポン]]の借款契約を締結していた<ref>
[[#関山]]、p.p.63.</ref>。