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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の[[かまど|竈]]の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しよう図った。一方、孫臏は、その先の隘路である[[馬陵]](現在の山東省[[臨沂市]][[タン城県|郯城県]])の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所の樹木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記し、その道の両側に伏した兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。
 
果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着し、なにやら書かれている板があると兵が言ったため自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ)」と言い残して自刎し、魏の太子申は捕虜にされた<ref>『[[戦国策]]』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜にされ、太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると魏の恵王が晩年に[[孟子]]と会見した時に「私は先年に、可愛い息子を陣没で失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。</ref>。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることなった。
 
この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がい。
 
== 孫臏兵法 ==