「中央アジア」の版間の差分

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==== ウイグル可汗国 ====
[[タリム盆地]]の北に位置し[[モンゴル高原]]の南西にある[[ジュンガル盆地]]には、古来より[[遊牧]]民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていたが、[[鉄勒]]の中からウイグル([[回鶻]])が台頭し、[[8世紀]]には突厥を滅ぼした。鉄勒は突厥以外のテュルク系民族を指す概念で、九姓(トクズ・オグズ)とも呼ばれていた。鉄勒は中央ユーラシア各地に分布し、中国史書では「最多の民族」とある。鉄勒は突厥に叛服を繰り返していたが、鉄勒の一部族の回紇([[ウイグル]])が台頭し、葛邏禄([[カルルク]])、拔悉蜜([[バシュミル]])といったテュルク系民族とともに[[東突厥]]第二可汗国を滅ぼした。この時期のウイグルは、[[タリム盆地]]、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、'''[[回鶻|ウイグル可汗国]]'''と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、[[安史の乱]]等ではしばしば[[唐]]を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めたが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。
 
モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が[[回鶻]]可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係を築き[[シルクロード]]交易で繁栄したが、内紛が頻発して[[黠戛斯]](キルギス)の侵入を招き、[[840年]]に崩壊した。モンゴル高原より逃亡したウイグル人は[[甘州ウイグル王国]]、[[天山山脈]]北麓ユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、[[天山ウイグル王国]]を建てた。天山ウイグル王国は[[東トルキスタン]](タリム盆地、[[トルファン盆地]]、ジュンガル盆地)の東半分を占領し、[[マニ教]],[[仏教]],景教([[ネストリウス派]][[キリスト教]])を信仰した。これらは東トルキスタンにおける定住型テュルク人(現代[[ウイグル人]])の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地に'''[[カラ・ハン朝]]'''を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝が[[イスラム教]]に改宗すると、イスラム化が進んだ。