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[[File:Zi Chan.jpg|thumb|子産]]
'''子産'''(しさん ? - [[紀元前522年]])は、[[春秋時代]]の[[鄭]]に仕えた[[政治家]]。[[姓]]は'''[[姫 (姓)|姫]]'''、[[氏 (中国)|氏]]は'''[[国 (姓)|国]]'''、[[諱]]は'''僑'''、[[字]]は'''子産'''。「'''[[公孫氏|公孫]]僑'''」とも呼ばれる。祖父は鄭の[[穆公 (鄭)|穆公]]、父は[[子国]](公子発)、子は[[国参]](子思)。弱小国の鄭を安定させる善政を行い、中国史上初の[[成文法]]を定めたとされる。
 
== 経歴 ==
[[紀元前548年]]には子展と共に[[陳 (春秋)|陳]]を攻めて陳の都を陥落させ、この功で六邑(村)を与えられるが、半分だけ受け取った。
 
子展は[[紀元前544年]]に死に、その子の[[子皮罕虎]](罕虎子皮)が政権を執る。しかし子皮は自分よりも子産の方が才能があることを自覚していたので、翌[[紀元前543年]]に子産に正卿の地位を譲った<ref>ただし、正卿は子皮のままで、次席の子産が執政として実際の政治を取り扱ったとの説もある</ref>。
 
=== 宰相として ===
ではなぜ子産が成文法を作ったかと言えば、すでに宗族制度の中枢にあるべき[[周]]王室が衰退して久しく、既に制度自体が機能しなくなっていた。そのような状況下で法体系を大きく変えなければ、下の者の不満を抑えきれない状況が作られていたからだろう。上述のように士の階級の台頭を押さえ込もうとしたが、それだけ下の力が強くなっていたということの証拠であり、いわば飴と鞭である。その証拠に、鄭に続いて叔向亡き後の晋が、成文法を制定している。このことは[[孔子]](宗族制度の擁護者であり、礼は士大夫、刑罰は庶民に対するものであると考えていた)に大きな衝撃と困惑を与えたといわれている。
 
=== 死 ===
[[紀元前522年]]、死去。宰相の地位にあること21年であった。
 
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