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江戸後期には「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。幕末の洋学者[[佐藤元長|佐藤元萇]]は六大陸と対比して支那を論じる<ref>長久保赤水「唐土歴代州郡沿革図」の安政2年[[佐藤元長|佐藤元萇]]跋文に「世の論者ややもすれば輙ち曰く、支那と我と相い唇歯となすと、これ必ずしも然らず……六大洲の浩々たる、満清を継いで王たる者また何の姓なるを知らず」と言う。http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01371/ri08_01371_p0043.jpg</ref>。幕末の英語辞書『[[増訂華英通語]]』の万延元年の[[福澤諭吉]]凡例では英語と中国語との対比で「支那」が使われている<ref>『[[増訂華英通語]]』の福澤諭吉の凡例に「学者自非諳支那音」云々とある。現代語訳は、「学ぶ者、支那の音を諳ずるに非ざるよりは」である。http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0788/bunko08_c0788_p0003.jpg
{{Cite book|和書|author=子卿|authorlink=子卿|others=福澤諭吉訳|year=1860|title=増訂華英通語|publisher=快堂蔵板|ref=子卿1860|page=4|url=http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=1&PAGE=4&KEY=%E6%94%AF%E9%82%A3}}</ref>。特に[[明治]]期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた(例:「漢文学」→「支那文学」)。日本では、伝統的に[[黄河]]流域の国家に対し「唐、漢、唐土」の文字を用いて「とう、から、もろこし」等と読んできたが、明治以前の文献調查では日本と中国対置すると呼んだ例が複数存在する<ref>間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行』[http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0400000000/0000001319 国立公文書館デシタルアーカイブ 東韃地方紀行 中巻](文化八年(1811年)筆原本画像)の最終頁に「中国」の呼称が複数登場し、「日本と中国」ともある。日本と中国が対置する概念として記載されている。なお、同書に掲載されている清朝役人の名刺は「大清国」である。</ref>
 
日本では、伝統的に[[黄河]]流域の国家に対し「唐、漢、唐土」の文字を用いて「とう、から、もろこし」等と読んできた。[[明治政府]]が[[清]]と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」等の呼称が用いられてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」が用いられるようになった。ただし「[[漢人]]」「[[漢民族]]」の定義は不確定であり学術的に確定しているわけではなかった。
 
日本は[[1876年]](明治9年)以降、清国内に日本の郵便網を整備し郵便局(在中国郵便局)を設置した。これは欧米列強と同様に清国内で近代的郵便制度が未整備であった為であるが、19世紀末に清国政府による大清郵政が創業してからも存続していた。当初は日本国内と同様に日本切手を現地通貨で販売していたが、価値の低い清国通貨で購入した切手を日本本土に送る投機が行われるようになった。そのため[[1900年]](明治33年)以降は日本国内で使えなくするため加刷切手に切り替えた。この時の加刷切手に地域名として「支那」を用いている。これは欧米列強が中国で発行した切手が国号の"[[清|Ch'ing]]"ではなく"China"(英米)を用いたのと同様であった。この切手もまた日本では支那は国家名ではなく地域名として用いられていたことを表している。