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[[慶長]]19年([[1614年]])からの[[大坂の役#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では中心人物の一人として籠城戦の指揮を執り、船場の砦などを守備した。膠着状態の中、[[塙直之]]らと共に本町橋から蜂須賀隊への夜襲を敢行した。しかし、兄・治長の主導で徳川方との和睦が成立すると、主戦派であった治房は兄と対立する。和睦後、治長が城内で襲われて負傷したが、これは治房が襲撃させたとも言われる。
 
元和元年(1615年)、徳川家との和睦が破綻し再び合戦となると([[大坂の役#大坂夏の陣|大坂夏の陣]])、治房は[[筒井定慶]]の[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]を攻略するため2千余の兵を率いて[[暗峠]]を越えて、ほとんど空城となっていた[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を攻撃し城下を焼き払った([[郡山城 (大和国)#郡山城の戦い|郡山城の戦い]])。
更に治房は[[紀伊]]の[[浅野長晟]]を攻撃するため[[和歌山城]]を目指した。同時に紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応させる計画であった。治房は一揆勢の蜂起と呼応して攻めようと考えていたが、塙直之ら豊臣軍の先鋒と浅野勢との間で戦闘が開始されたため、戦場である樫井へ急いだ。しかし到着する前に塙直之らの部隊は壊滅し、浅野勢も退却していたため、大坂に引き返した([[樫井の戦い]])。
[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]、最後の決戦のため豊臣方は[[大坂城]]を出発し、治房は岡山口の主将として計4,600の軍勢で布陣した。戦闘が始まると、治房隊は徳川勢先鋒の前田隊を攻撃、これを支援するために井伊隊、藤堂隊が動くと、混乱に乗じて[[徳川秀忠]]の本陣に殺到し、旗本先手を突き崩し大混乱に陥れた。しかし次第に秀忠軍が反撃に転じ始め戦況が不利になると、治房は敗兵を収容しつつ城内に撤退した。その後、城が炎上すると玉造口から逃亡した。