「仁徳天皇」の版間の差分
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== 皇居 ==
[[File:Legendary Imperial Palace of Emperor Nintoku.jpg|thumb|220px|right|{{center|高津宮址碑<br />([[大阪府]][[大阪市]])}}]]
即位後は、都をそれまでの大和、または大隅宮から[[大伴氏]]などが本拠地を置いていた難波に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。
宮址については、[[江戸時代]]の頃より諸説ある。現在の高津宮址の碑は、[[明治]]33年([[1899年]])に[[難波神社]]と[[高津神社]]において執り行われた仁徳天皇千五百年大祭を祝して設置され、その後に移設されたものである。
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== 陵・霊廟 ==
[[File:Daisenryo Kofun haisho-2.JPG|thumb|220px|right|{{center|仁徳天皇 [[大仙陵古墳|百舌鳥耳原中陵]]<br />(大阪府[[堺市]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[大阪府]][[堺市]][[堺区]]大仙町にある'''百舌鳥耳原中陵'''(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている({{ウィキ座標|34|33|50|N|135|29|14.5|E|region:JP-27|位置|name=百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵)}})。宮内庁上の形式は[[前方後円墳|前方後円]]。遺跡名は「[[大仙陵古墳]](大山古墳)」で、日本最大、墳丘長
『古事記』には「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野稜(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。『[[延喜式]]』諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記されている。陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中から[[モズ]]が現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは[[大阪府]]の鳥である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。
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