「坂田三吉」の版間の差分

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== 「坂田」か「阪田」か ==
三吉の苗字については、'''つちへん'''の「'''坂田'''」と'''こざとへん'''の「'''阪田'''」という2種類の表記が混在している。三吉自身、漢(「阪」は「坂」の異体)。こ読み書きがほとんどできようかったため、表記の訂正複雑どを行わなかっ事情が生じようである。経緯はおおむね以下では、存命当時にどような表記が用いられ通りであのかを示す<ref>岡本嗣郎「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」、大山勝男「反骨の棋譜坂田三吉」、東公平「阪田三吉血戦譜」</ref>。
 
三吉の存命中は表札、免状の署名(俳人である中山眉山や書道家である北野千里の代筆)、著書の名義(代筆)、新聞の記載などいずれも主に「坂田」と表記されていた。三吉本人も指導対局を行った際の謝礼の領収書には「坂」の一文字でサインをしていた。しかし、少数ながら「阪田」と表記する例も存在し<ref>[[1918年]]以前の朝日新聞など。なお、朝日新聞は[[1919年]]以降「坂田」と改めている。</ref>、当時から表記揺れがあった。
「坂田」の表記が用いられたものは以下の通りである。
* [[1872年]]の戸籍
* 生家の表札
* 免状(俳人である中山眉山や書道家である北野千里の代筆)
* 三吉名義の著書
* サイン(代筆の可能性あり)
* [[毎日新聞]]
* [[1919年]]以降の朝日新聞
 
三吉の死後に観戦記者・[[東公平]]の調査によって三吉死亡時の戸籍が「阪田」になっていることが判明した。もっとも、[[1872年]]編纂の戸籍では「坂田」となっており、[[1916年]]に編纂された戸籍で何らかの理由により「阪田」に改められたものであった(改名の理由は不明)。三吉の娘によると、三吉は漢字の読み書きがほとんどできなかったため、「坂」と「阪」の違いがよく分かっていなかったが、最終的に戸籍上の本名が「阪田」となったのは間違いないとのことであった。
「阪田」の表記が用いられたものは以下の通りである。
* [[1916年]]の戸籍(いつどのような理由で「坂田」から変更されたのかは不明<ref>なお、本人は「三」「吉」「馬」などの限られた漢字しか書けず、「阪」の字を書けたという証言はない。</ref>)
* [[1918年]]以前の朝日新聞
 
三吉現在では、存命時死後表記準拠して「坂田」とする場合と、死亡時の戸籍に準拠して「阪田」であったこが判明しする場合と、どちらも見られる。えば、王将碑、戯曲『[[王将 (戯曲)|王将]]』のほ、新聞・書籍・論文・辞典などの文献類では田」表記されることもが多数派である。たとえば一方、現在の日本将棋連盟では、刊行物や公式ウェブサイトなどでは「阪田」と表記しているし、連盟建立した墓石などで「阪田」である。またと表記しており新聞などでも新戸籍これ準拠し倣っ新聞等が「阪田」へと表記を改め採用する例ある。
 
一方、死後も存命当時の表記に準拠して「坂田」とすることも多い。たとえば、王将碑、戯曲『[[王将 (戯曲)|王将]]』などは「坂田」表記である。書籍・論文・新聞などでも「坂田」表記が多い。
 
== エピソード ==