「賤ヶ岳の戦い」の版間の差分

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[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[6月10日]])、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、[[桑山重晴]]も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって[[琵琶湖]]を渡っていた[[丹羽長秀]]が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。
 
さらに同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。これを[[美濃大返し]]といい、14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む13里(52キロ)の距離を5時間で移動した。大垣と木之本間の綿密な連絡網からして予定されていた一騎駆けで、場当たり的な作戦ではなく、これが秀吉の勝因となったといえる<ref>[[宮本義己]]「賤ヶ岳一騎駆け」(『歴史読本』35巻3号、1990年)</ref>。 秀吉軍が戻って来ることを佐久間側も知っていたが、その軍行の速さを知ったとき「そんなまさか秀吉が、いかに[[天魔]]といえども、まだ戻って来るまい」と言い驚いたという。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。
 
ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される{{Sfn|高柳|2001}}。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は崩れ、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。